「1683年ウィーンとオスマン・トルコ」②

 フランスは三十年戦争(1618年~48年)にも途中から参戦するが、それは自身と信仰を同じくするカトリック勢力ではなくプロテスタント勢力を支援するためだった。フランスにとって大切なことは、信仰の問題以上にハプスブルク勢力を弱体化させ、フランス王権を強化することだったのだ。では、トルコの脅威からキリスト教世界を守る陸の防波堤だったウィーンが30万のオスマン・トルコ軍に包囲され絶体絶命の状況に置かれた時、救援軍を派遣しなかったのか?そう、派遣しなかったのだ。フランスは「敵の敵は味方」の論理で、ハプスブルクという悪魔を倒すためには、トルコというサタンと手を結ぶことも辞さなかった。フランスのハプスブルク敵視政策、弱体化政策はそこまで徹底していたのだ。このあたりの経緯を知っておかないと、ルイ15世、ポンパドール夫人の時代にハプスブルク家皇女マリー・アントワネットをフランス王太子に嫁がせることがなぜ「外交革命」と呼ばれるほどのフランスの外交政策上の大転換だったかということを理解できないと思う。当然、そのような大転換を望まない勢力は結婚後のマリー・アントワネットを批判する勢力の中心にいつづけることになる。

 そもそもオスマン・トルコは、第二次ウィーン包囲にあたって事前にフランスから、ウィーン総攻撃の際に中立を守る約束をルイ14世からとりつけている。第二次ウィーン包囲の14年前の1669年7月、オスマン・トルコのスルタン、モハメド四世の使節ソリマン・アガが請願のためにヴェルサイユ宮殿を訪れていたのだ。 実はこの時、ソリマン・アガはことをスムーズに運ぶために、ルイ14世の御前であるものを披露した。トルコ式のコーヒーとコーヒー礼法である。東洋の衣装を身にまとった召使いが、錦繍の敷物の上で金色に輝く器に入ったかぐわしいコーヒーをうやうやしく供するという格調高いセレモニー。遠くオリエントの流麗な動きとエキゾチックな琥珀色の飲み物は、居並ぶすべての貴族や貴婦人たちをすっかり魅了してしまう。以来、フランス上流社会ではコーヒーの召使を雇うことが一つのステータス・シンボルとなる。フランスのコーヒー文化はこうして始まった。

 その後、1671年にマルセイユでフランス最初のコーヒー・ハウスが開業。商売敵のワイン商たちは猛反発する。医師がワイン商の要求を受けて、コーヒーが健康に及ぼす悪影響を説いたが、それでもフランスでのコーヒー人気は高まるばかり。1672年にはパリ最初のコーヒー・ハウス、1686年には「カフェ・プロコープ」(現在もカフェ・レストラン「ル・プロコープ」として営業を続けている)が開店。文人や政治家などの多くの人間が議論を交わす社交場になっていった。また、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られており、「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳を入れる飲み方が考案された。「カフェ・オ・レ」の誕生である。

 では、ウィーンのコーヒーすなわちウィンナ・コーヒーはどのようにして始まったのか?こんな言い伝えがある。第二次ウィーン包囲で、救援に駆けつけたソビエスキらによって壊滅させられたオスマン軍は、取るものもとらず命からがら敗走。そのため様々な物資が放置された。その中に大量の緑色の豆があった。人びとはラクダの餌と思っていたが、トルコ語ができ戦いで間諜をつとめたコルシツキーなる男は、それがトルコ人の賞味するコーヒーであることを知っていた。彼はこの「ラクダの餌」をもらいうけ、コーヒー店を開いて大当たりした。話としては面白いが、近年の研究によると、これは伝説に過ぎないようだ。1685年、ヨハンネス・ディオダドというアルメニア人が、レオポルト1世の許可を得て開いたのが、ウィーンのカフェ第一号のようだ。いずれにせよオスマン・トルコによる第二次ウィーン包囲とは関係しているようだが。

(カフェ・レストラン「ル・プロコープ」 パリ)外観

(カフェ・レストラン「ル・プロコープ」 パリ)内部

 (アダム・フランス・ファン・デル・ミューレン「ストラスブール前のルイ14世」ストラスブール歴史美術館 1682~85)

(アウグスト・クヴェーアフルト 「第二次ウィーン包囲」)ウィーンを包囲するオスマン・トルコ軍


(二次ウィーン包囲戦でのオスマン・トルコ軍)

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