「秋の七草の筆頭 萩」
万葉集で一番多く詠まれた植物と言えば萩。その数142首(第2位は、梅で119首)。山上憶良の秋の七草の筆頭も萩。
「秋の野に咲きたる花を指折り(およびをり)かき数ふれば七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花」
ここでは「萩の花」と記したが、万葉集では「萩」という字はまだ見えず「芽子」「芽」が当てられていた。萩は古い枝に花をつけず、春に新しく伸びた枝にだけ花をつける。そのため、翌秋も花を賞美したければ、冬のうちにばっさり枝を剪定してしまう必要がある。そうすると翌春、古株から芽が盛んに吹き出る。萩に「芽」「芽子」の字を宛てた所以だ。「草冠に秋」すなわち秋を代表する花として「萩」という国字が定着したのは平安時代からのことである。清少納言は、『枕草子』の中で萩の美しさをこう表現している。
「萩、いと色ふかう、枝たをやかにさきたるが、朝露にぬれて、なよなよとひろごりふしたる」
芭蕉も萩を詠んだ名句をいくつか残している。
「一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月」
(同じ宿に偶然にも遊女も宿泊している。宿の庭には月の光に照らされて萩が咲いている。)
これは『奥の細道』に登場。北陸一の難所と言われる親不知子不知(おやしらずこしらず)を何とか越えてようやくたどり着いた市振(いちぶり)の宿。そこで、芭蕉は新潟から伊勢に詣でるという隣室の遊女から「旅の道連れにしてくれないか」と頼み込まれる。しかし、自分が方々立ち寄る旅をしていることを理由に、不憫とは思いつつも断る芭蕉が詠んだのがこの句。しかし、この話はフィクションとされる。芭蕉に同行した曾良の日記に記述が無いことなどがその理由としてあげられている。そうだとしてもこの句は素晴らしい。あわれな身の上の遊女、十三夜の月(市振に着いたのは9月13日)と月の光に照らされる萩の取り合わせが見事だ。
「濡れて行くや 人もをかしき 雨の萩」
(私は雨の中を濡れながら萩見に歩いて行く。そうすると濡れている萩のように人も風情があると感じられる。)
この句が詠まれた場所は、亀戸天満富にほど近い龍眼寺。境内に萩が多く植えられ、安永のころ(1772)から、「萩寺」の名で通っていたようだ。ここはとにかく萩一色。元禄ごろに植えられ一時絶えていたが、明和年間に再興。当時のこの辺りは淋しい土地で「追いはぎ」がよく出たため口の悪い連中から「はぎ寺」など言われた。そのため、それをごまかすため萩ばかり植えたとも言われる。
「庭中(ていちゅう)萩多く栽(うえ)て 中秋の一奇観たり 故に俗に呼んで萩寺と称せり」
(『江戸名所図会 龍眼寺』)
ところで、萩寺が有名だったのは花のせいばかりではなかったことが次の川柳からわかる。
「萩寺に 内儀の首がかしぐなり」
萩寺に萩を見に行くという夫に、女房が首をかしげている様子を歌っている。何を怪しんでいるのか。吉原通いだ。江戸時代、龍眼寺は亀戸天神の裏門の先十間川沿いにあったので、船での来遊が至極便利であった。吉原は、隅田川をはさんで向かい側。花見(御殿山)と言って品川宿、紅葉狩り(下谷正燈寺)、萩見にかこつけて吉原と、女房の目を盗んで遊郭に通いたがった江戸っ子の姿はおかしくも哀しい。
(清長「風俗東之錦 萩見」)
(清長「江都花十景 萩てら」) 龍眼寺の萩見の様子で絵の中に芭蕉の句碑が描かれている。
(春信「浮世美人寄花 娘風 萩」)
背後には「濡て行人ハおかしや萩……」と刻まれた芭蕉句碑が見え、上部の雲形には、題字と「いとゝ又折てぞ増る秋萩の花色衣露のたてぬき」の和歌が記される。
(春信「夜の萩」)
(『江戸名所図会 龍眼寺』)
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