「菊合わせ」「菊人形」

 菊見(看菊)と言っても、江戸の初期までは、自然に咲き乱れる菊を愛でることだった。それが柵の向こう側の人工的な菊の鑑賞に変わっていったのは江戸の後期から。江戸中期の正徳年間(1711~16)、京都の円山を中心に大菊の新花を競う「菊合わせ」が流行した。名前からすると風流な遊びのようにも聞こえるが実態はまるで違う。一芽が一両~三両(5万~15万)にも評価されるとあって、仕事を放り出して菊の栽培に熱中するもの、家族の嘆きもよそに金をつぎ込むものまで現れた。「碁打ち、博打打ち、菊作り」。親の死に目に遭えない人のことだ。蕪村も「菊合わせ」に熱狂する人をこんなふうに詠んでいる。

            「菊作り汝は菊の奴かな」

 その後「菊合わせ」(菊大会)は江戸にも飛び火した。そして享保~寛政年間(1716~1801)頃から、江戸の花の名所のひとつを構成する「中秋の菊花壇」が発展していく。巣鴨から染井(駒込)に集まっていた植木商の多くが、中菊や大菊による見事な花壇を連ねたので、秋には広い階層の様々な年代の人々が、菊の花を見に訪れた。

 変化に富む多種多様な日本菊の多くはこの時代に生まれたが、品種の鑑賞だけがもてはやされたわけではない。一本の幹に数多くの花をつける手法も登場した。染井の植木屋今右衛門は、太さニ、三寸余りの一本物の菊に、百種もの中輪の菊を接ぎ木して咲かせ、東武一円の評判になった。その様子は歌川国芳「百種接分菊」に描かれている。

 また、作りものとしては「菊細工」が文化年間(1804~18)に始まり、染井周辺の植木屋によって「菊人形」に発展。この「菊人形」。一時期爆発的な人気を博した。江戸っ子は番付をつけて、どこが一番かとハシゴして歩き、地方に住む人も江戸見物の折には、何をおいても菊人形見物にはせ参じるというほどの熱狂ぶりであった。斎藤月岑『武江年表』にこう述べている。

「文化(1804~18)の末、巣鴨の里に菊花をもて人物鳥獣なにくれとなくさまざまの形を造る事はやりだして、江府(江戸のこと)の貴賤日ごとに群集し、道すがら酒肆(しゅし。酒店)茶店をつらね、道も去りあへぬまで賑わひし・・・」

 そこで作られていた細工菊、菊人形については『江戸名所花暦』にこうある。

「そのたくみの細やかなること、実に奇といふべし。あらましをいふに、獅子の子落とし、布袋(ほてい)の唐子(からこ)遊び、汐汲(しおくみ)の人形、九尾(きゅうび)の狐、文覚上人(もんがくしょうにん)の荒行、富士見西行など、いろいろの花と葉をもってたくみあげたり」

(「富士見西行」=日本画の画題の一。笠・旅包みなどをわきに置いて富士山を眺める西行の後ろ姿を描くもの)

 武家の中には、「俗物中の俗物」と毛嫌いした人もいたが、派手好き、珍しもの好きの江戸っ子には、見た目のわかりやすさも手伝ってか、大いに受けた。もっとも、見物料を取らなかったので、コスト面で行き詰まり、文化十三年(1816)頃の巣鴨染井では「菊人形」はすたれてしまったらしい。その後、団子坂の植木屋に受け継がれ、明治期になると、小屋掛けして木戸銭を取って見せるという興行に変化していった。明治十年の団子坂の菊人形全盛期には、扱う小屋が44軒にも及んだという。夏目漱石もその賑わいぶりを『三四郎』の中でこう描いている。

「坂の上から見ると、坂は曲つてゐる。刀の切先の様である。幅は無論狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮ぎつてゐる。其後には又高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、路一杯に塞がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見てゐると眼が疲れるほど不規則に蠢いてゐる。」 

(国芳「百種接分菊」)

 百種の菊それぞれに、「金孔雀」「狂獅子」などの名札が吊るされている。

(春章「五節文章 菊月の文」)

  初期の大輪菊の輪台のつくりかたがよくわかる。この輪台、当時は「腰巻」と称した。

(豊国「菊見の美人」)

(春信「寄菊(きくによす) 夜菊を折り取る男女」)

闇夜にまぎれて菊の花を盗みとろうとする若者が、手助けするように明かりを差しだす若い娘と目を合わせている。漆黒の闇の黒と独特の黄色とともに、春信らしい世界を作り出している。

(歌麿「絵本四季花 下 菊見」)

(国輝「当世菊見図」)

 茶屋に設けられた菊見の席。菊で造った巨大な帆掛船。

(芳虎 「流行菊花揃 染井植木屋金五郎」)  全身菊でできた象の作り物(菊人形)

(山本松谷「団子坂の菊」) 今からは想像できない賑わいぶり。漱石はあまり好まなかったんだろうと思うが。

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