「滝浴み 夏月(かげつ)の炎暑を避ける」②
神田上水や玉川上水がまだ敷設(ふせつ)されていなかった頃、江戸の水源は赤坂にあった溜池だった。慶長11年(1606)に浅野行長が山王の麓に造成した人工湖で、東は虎の門、新橋、汐留、西は赤坂御門まで続いていた。2代将軍秀忠時代には、鯉・鮒などを放流し、蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する名所となったそうだ。
「往古欽命によりて、江州琵琶湖の鮒および山城淀の鯉等を、活きながらこの池に移し放たしめられたりとて、形すこしく他に異なり。また蓮を多く植ゑられしゆゑに、夏月花の盛りには奇観たり。」(『江戸名所図会3巻 溜池』)
浮世絵にも多く描かれたが(広重『名所江戸百景』だけでも「赤坂桐畑」、「紀の国坂赤坂溜池遠景」、「赤坂桐畑雨中夕けい」など)、この溜池から流れ落ちる滝(その水音から「どんどん」と呼ばれ親しまれていた)が存在していた。それを北斎が「諸国瀧廻 東都葵ケ岡の滝」で描いている。池の水面の静けさと、落下する滝、そして滝が落下し波立つ水面の描き分けが見事。北斎が、滝を題材に「水」の表現に挑んだ意欲作であることがよくわかる。
他方、広重は「名所江戸百景 虎の門外あふひ坂」で真冬の早朝の葵坂を描いている。赤瀬川原平が『広重ベスト百景』の中で、夜景のベスト1に選んだ作品。赤瀬川は次のように評している。
「手前の提灯を手にした裸の二人、この歩きっぷりがそのまま夜の闇の濃密さをあらわしている。これは職人に技量向上を願っての寒行らしい。この時代、仕事はたんなる労働ではなかったのだ。闇の中にそば屋がいて、猫がいて、ちらほらと歩く人がいて、本当はもっと何ものかがうようよいそうな夜の感触がたまらない。」
ところで、江戸には他にも「滝」はあった。
①「独鈷(とっこ)の滝」
泰叡山瀧泉寺、通称「目黒不動」にある。ここは上野寛永寺の末寺だが、平安時代(808年)に十五歳の慈覚大師・円仁(後の天台座主第三祖)が、故郷の下野国から比叡山の伝教大師・最澄のもとへ向かう途中、目黒の地に立ち寄った折りに、不動明王の夢告を得て自ら不動尊像を彫刻して安置し開山。「独鈷の滝」の名は、慈覚大師が留学していた長安の青竜寺に清い滝があったのを思い出し、試みに「独鈷」(煩悩を打ち砕く仏具)を投げたところ、たちまち泉が湧き、滝となったとの言い伝えに由来。二条の清水が銅製の竜口から注いでおり、不動講の水垢離場となっている。近年水量は減ったが、今でも1年中水が枯れることはない。
ところでこの滝、西郷隆盛とも深い関りがある。嘉永7年(1854年)、主君島津斉彬が発病し重篤な状態に陥った。西郷は、斉彬の回復を願い昼夜となく目黒不動に参詣し滝に打たれた。その後、斉彬の体調は回復。以降、西郷隆盛は目黒不動尊を信仰し、明治になってからも度々訪れたそうだ。
②「千代が崎の滝」(目黒)
『遊歴雑記』(1815年頃)によれば、当時「武州(武蔵国)第一の名滝」とされていた。肥前国島原藩松平家の千代ヶ崎(目黒区)の下屋敷(大名屋敷は、普通は一般庶民が自由に出入りできるような場所ではないが、ここは「抱屋敷」だったため壁や柵が存在しないオープンスペースで、誰もが自由に出入りできた。2万坪あまりの広大な敷地)にあった滝(三田用水を利用)だった。3段になっていて、長さが14メートル、幅が0.9~2.4メートル、高さが10メートルほどあったという。この滝の様子は、歌川広重の『名所江戸百景 目黒千代が池』に、描かれている。「千代が池」は、南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げた池と伝えられている。ところでこの「千代ヶ崎」(JR目黒駅近くの権之助坂から恵比寿方面に向かう目黒川沿いの台地)は、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地で、ここからの眺めは「絶景観」と称された。その様子は『江戸名所図会』にも描かれている。
(広重「東都名所坂つくしの内葵坂之図」)
(北斎「諸国瀧廻り 東都葵ケ岡の滝」)広重の作品と比べると北斎の関心の対象がよくわかる
(広重「名所江戸百景 赤坂桐畑」)
(広重「名所江戸百景 紀の国坂赤坂溜池遠景」)
(広重「名所江戸百景 赤坂桐畑雨中夕けい」)
(広重「名所江戸百景 虎の門外あふひ坂」)
(広重「江戸名所 目黒不動」)中央左に、水垢離場が描かれている
(広重「江戸名所 目黒不動尊」)水垢離場の様子がよくわかる
(「江戸名所図会 溜池」)広さがよくわかる
(広重「名所江戸百景 目黒千代が池」)滝も池も三田用水の水を利用
(「江戸名所図会 千代の崎」)
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