「万能人レオナルド」②彫刻家

  レオナルドが仕えたミラノ公国の支配者ルドヴィコ・イル・モーロの父はフランチェスコ・ スフォルツァ。スフォルツァ家によるミラノ公国を樹立した。ヴィスコンティ家の傭兵隊長として出世し、ヴィスコンティ家の娘と結婚。そしてミラノ公位を継承した。イル・モーロは、スフォルツァ朝を開いたこの父を記念する巨大な騎馬像の制作をレオナルドに委嘱。レオナルドはこの騎馬像になんと16年もの歳月を費やすことになる(この間に『最後の晩餐』も描かれた)。

 その時点までに、イタリア各地には広く知られた馬の青銅像の傑作がいくつか存在した。ローマのマルクス・アウレリウス騎馬像、ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂階上バルコニーの四体の馬、パヴィーアのレジソーレ騎馬像(ナポレオン戦争で破壊)、ドナテッロとヴェロッキオ(レオナルドの師匠)のパドヴァとヴェネツィアにおける各二大騎馬像などである。しかし、レオナルドにあっては、こうした記念像の研究よりも、生きて躍動する馬の生態研究こそ第一義的であったようだ。馬の全姿はもとより馬体各部のプロポーション、骨格および筋肉の構造、四肢のさまざまな動き、歩行中の状態などを調べながら、繰り返し馬を描いている。そして、1493年、ようやく粘土模型が完成する。それは馬だけで6メートル以上になる巨大な騎馬像だった。この粘土模型の見事さをバルダッサーレ・タッコーネがこう詩にうたっている。

「 見よ、彼(イル・モーロ)はコルテで作らせている

  父の記念のために、偉大な金属の巨像を。

 断固として私の信ずるところ、疑いもなく

 ギリシアでもローマでも、かくも大なる像は見られたためしはない。

 かの馬がいかに美しいか見るがよい 

 ひとりレオナルド・ダ・ヴィンチがこれを作ったのだ・・・・    」

 あとは、粘土模型から鋳型を作り、ブロンズを流し込む(鋳造)だけ。約75トンものブロンズも用意された。しかし、この騎馬像は完成しなかった。差し迫るフランスの脅威を強く感じ取ったイル・モーロは、そのブロンズを全部、義父のフェッラーラ公エルコーレ・デステ1世へ回してしまった、大砲鋳造に使用するため。この時のレオナルドの心境はいかばかりだったろう。イル・モーロ宛の手紙では「私は時勢を心得ていますので、馬のことについてはなにも申し上げますまい」と平静を装っているが、その挫折感、絶望感の大きさははかり知れない。そして、粘土模型も侵攻してきたフランス軍によって、射手たちの格好の標的にされ破壊されてしまった。イル・モーロは捕らえられ、レオナルドのミラノ生活も幕を閉じる。

 この騎馬像、完成していたらどのような姿だったのだろう。実はそれを知ることができる場所が名古屋にある。「名古屋国際会議場」。ここの中庭に面して建つ巨大な騎馬像こそ「幻のスフォルツァ騎馬像」である。1989年(平成元年)、名古屋市の市制100周年を記念して「世界デザイン博覧会」が開催されたが、その時「創造工房東海銀行館」に出展された。出展に際してこの幻の騎馬像を再建させるため、1967年に発見された「マドリッド手稿」や残された数々のデッサンを参考に、まず2mの原形を粘土で創作し、これをコンピューターで拡大し強化プラスチック(FRP)で仕上げたという。ブロンズのような重厚感こそないが、レオナルドが意図した魅力は十分伝わってくる。名古屋城や徳川美術館もいいが、ここも十分訪れる価値のある名古屋の隠れた名所だと思っている。

(「幻のスフォルツァ騎馬像」名古屋国際会議場)

 (レオナルド「異なる4つの視点から見た馬の右前脚」)

(レオナルド「異なる4つの視点から見た馬の左前脚」)

(レオナルド「正面及び側面から見た馬の頭部の構成比」)

(レオナルド「スフォルツァ騎馬像」習作1

馬の前脚に踏みつぶされる敵兵を置くことで 、後ろ脚だけでいななき立つポーズを可能にしようとしていたことがわかる。

(レオナルド「スフォルツァ騎馬像」習作2)

依頼内容が当初の4倍の大きさに変更されたため「いななき立つ馬」から「歩く馬」にポーズも変更されたことが分かる。

(「マルクス・アウレリウス騎馬像」カピトリーニ美術館)

(「4頭の馬」サン・マルコ寺院 ヴェネツィア)

(ドナテッロ「ガッタメラータ将軍騎馬像」パドヴァ)

(ヴェロッキオ「バルトロメオ・コッレオーニ騎馬像」ヴェネツィア)

(名古屋国際会議場) 中央下部に「幻のスフォルツァ騎馬像」が見える

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