「フィリッポ・リッピが描いた女性美」

  中世キリスト教世界では、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝以下の国王・領主ら世俗君主が聖職者(司教や修道院長など)の任命権(叙任権)をめぐって争った(「叙任権闘争」)。その中で、「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語した教皇がいる。インノケンティウス3世【在位:1198-1216】である。彼の治世に教皇権は全盛期を迎える。その彼が、助祭枢機卿ロタリオ・デイ・セニ(のちの教皇インノケンティウス3世)として書いた『人間の悲惨な境遇について』といふ本がある。その第一部で「人間の悲惨さについて」こう書かれている。

「人間は塵と泥と灰からできており、さらに悪いことには、もっとも不潔な精液から造られる。彼は肉欲と、激しい情欲と悪臭を放つ放蕩の中で身ごもられ、一層悪いことには、罪の汚れの中で孕まれた。」

 また、「人間はいかなる果実を生み出すのか 」についてこう述べる。

「おお、人間の境遇の忌まわしい卑賎さよ!嫌悪すべき人間の惨めな身の上よ!植物樹木を見るがよい。それらは自ら花を咲かせ、葉を繁らせ、身を結ぶが、お前自身からは虱や蚤の卵やミミズしか出ない。・・・お前からは唾や尿や糞しか出ない。・・・お前からは嫌悪すべき悪臭がただよう。」

 中世キリスト教世界における支配的な人間観はこういったものだった。こういう汚れた、罪にまみれた人間は、神に救いを求めなければ地獄に落ちるぞ、と脅すように神、教会への帰依を求めたのだ。このような人間観から、ルネサンスはどれほど劇的に変化したことだろう。レオナルドもミケランジェロもそのことをよく示している。

 しかしもう一人、ルネサンスの美を象徴する作品を書いた画家をあげたい。フィリッポ・リッピ。世俗的で甘美なマリアを描いた。彼の最高傑作とされるのが「聖母子と二天使」(ウフィツィ美術館)。初めて目にしたときの衝撃を忘れない。こんな生身の女を感じるマリアは初めてだった。そして、作者の人生を知って納得した。フィリッポ・リッピは修道士で画僧だった。しかしヴァザーリがこう記しているようにかなり破天荒な人物だった。

「 噂によると、このフィリッポはたいへんな女好きで、自分の気に入った女を見かけると、その女をものにすることができるなら、自分の持ち物はすべてくれてやるような男だった。」

 そして、50歳の時「ルネサンス史上最大のスキャンダル」と呼ばれる事件を起こしてしまう。なんと20歳の修道女ルクレツィアと駆け落ちをしてしまったのだ。やがてルクレツィアは出産(後の画家フィリッピーノ・リッピ)。「神に仕える身でありながらなんと罪深い男なのだ」と告発状が出される。このままいけば、死罪は免れない。しかし、そんな窮状を救った人物がいる。メディチ家当主コジモ・ディ・メディチ。ローマ教皇に手紙を書き助命を嘆願。

「 フィリッポ・リッピは、素晴らしい芸術家であり私の親友でもあるがそれ以上に自由で素直な心を持った人物である。その自由を抑圧することは神も決して喜ばないはずだ・・・・」

 この一事だけでコジモに魅了されてしまったできごと。それはともかく、こうしてフィリッポ・リッピは画業に打ち込むことができた。彼の「聖母子と二天使」のマリアは妻ルクレツィア、幼子イエスは息子フィリッピーノ・リッピがモデル。世俗、官能、聖性を併せ持つ画家と言われるフィリッポ・リッピの魅力にあふれている。

( フィリッポ・リッピ「聖母子と二天使」ウフィツィ美術館)部分


( フィリッポ・リッピ「聖母子と二天使」ウフィツィ美術館)

(フィリッポ・リッピ「聖母子とマリア誕生の物語」ピッティ美術館)

(フィリッポ・リッピ「幼児キリストを礼拝する聖母マリア」ベルリン国立絵画館)

コジモ・ディ・メディチが注文し、メディチ邸に置かれていた

(ベノッツォ・ゴッツォリ「ベツレヘムへ向かう東方三博士」メディチ・リカルディ宮殿)コジモ

(フィリッポ・リッピ 自画像)

 

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