「レオナルドの『最後の晩餐』制作過程」④

  次は、12使徒を3人一組の4グループに分けて描いたこと。その上で、全体として印象が拡散するのを防ぐために、手の動きなどによって4つのグループがイエスに向かって集束するように描いた。

 しかし何と言っても、この絵の魅力は12使徒一人一人の手の動き。イエスの右隣のヨハネ、ユダ、ペテロのグループを例に説明しよう。と言っても文豪が見事な説明をしているのでそれを紹介する。ゲーテだ。ゲーテはイタリア滞在を終えて国へ戻る途中、ミラノに立ち寄りレオナルドの『最後の晩餐』を見た(1788年5月)。そして、その29年後『レオナルド・ダ・ヴィンチの著名な最後の晩餐についての考察』を書いた。その中で「レオナルドが彼の絵に主として生気を与えるために用いた一つの偉大な工夫を分析しよう。それは手の動きである。」とし、ヨハネ、ユダ、ペテロのグループについてこう書いている。

「その中で主から最も離れているペテロは、主の言葉を耳にした瞬間、彼の激しい性格そのままに、ユダの背後で素早く身を起こす。ユダは恐れおののいて上の方を見やり、右手に財布を持ち、それをしっかりと握りしめながらテーブルにもたれかかる。しかしその左手は、あたかも『どうしたのだろう。何が起こるのだろうか』と言うように無意識の発作的な行為をしている。その間、ペテロは左手で彼の方に身を傾けるヨハネの左肩をつかみ、キリストの方を指さし、その愛されている弟子に誰が裏切者かを主に問うことを促しているように見える。彼は右手にナイフを持ち、偶然に、意図しないでその柄でユダの脇腹に触れている。そのために、あたかも驚いたかのように手前の方に身を反らし、この動作によって塩入れをひっくり返すユダの姿勢が見事に効果づけられている。このグループは絵の中で最初に構想されたグループと考えられる。それは、まことに完璧この上ない。」

 さらに付け加えるなら、ヨハネとユダの顔が向き合うように配置されている。これもレオナルドの「美は醜と並ぶと、互いにいっそう引き立って見える」という理論を実践している。それまでの「最後の晩餐」画で、イエスの両側に配置されていたヨハネとペテロを同一のグループにすることで、激情化のペテロと穏やかなヨハネという真逆な性格の人物を組み合わせることでやはり動と静をならべ、互いを一層引き立たせている。

 イエスの右のグループについてもゲーテの言葉を紹介する。 

「主の右手の側では、ある程度の感情の反応とともに即座の復讐がなされようとしているのに対し、左手の側では恐怖と、裏切りに対する憎悪が表れている。ヤコブは恐怖に身を引き、両手を広げ、下方を見つめ、耳にする恐ろしいことをすでに想像のうちに見ている人のようである。トマスは彼の肩のうしろに姿を見せ、主の方に詰め寄りながら右手の人差し指を彼の額に向けて立てている。このグループの3番目の人物ピリポは非常に魅力的な態度で先の2人に加わっている。彼は立ち上がり、主の方に身を屈め、胸に両手をあて、あたかも「主よ、わたくしは裏切り者ではありません――あなたはそれを御存知です――あなたはわたくしの汚れのない心をお分かりです――わたくしは裏切り者ではありません」とはっきりと述べるかのようである。」

 これほど、シンプルで、リアリティがあり、ダイナミックで、調和がとれ、主題(「裏切りの告知」)が明瞭な絵は皆無だ。ある文化が、そのもっとも完璧な様式を完成した時代に実現した特質を古典様式(クラシック)というが、レオナルドの『最後の晩餐』は、まさにルネサンスの古典主義様式を完璧に表した作品だろう。もちろん、レオナルド以外にも優れた画家、魅力的な芸術家は数多く存在する。しかし、それらを見るうえでもレオナルドのこの作品は一つの基準を提供してくれるスタンダード・アートだと思う。

 (「ヤコブ、トマス、ピリポのグループ」CG再現)

(「ヨハネ、ユダ、ペテロのグループ」CG再現)

(レオナルド「ピリポの習作」)

(レオナルド「女性像の習作」)

(レオナルド「女性像の習作」)

(レオナルド「グロテスク顔面の習作」)

(レオナルド「風刺画」)

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