「ルネサンスの飛躍とレオナルド」

  レオナルド・ダ・ヴィンチが14歳か15歳で弟子入りしたのは、当時のフィレンツェで最も名声の高い画家だったヴェロッキオの工房。ここで、レオナルドが23歳くらいの1475年ころ『キリストの洗礼』が描かれた。レオナルドが描いたのは左隅の天使とその背景。この絵は15世紀ルネサンスの自然主義、写実主義を終わらせたと言われている。どういうことか?ヴェロッキオが描いた「イエス」、「洗礼者ヨハネ」とレオナルドが描いた「天使」を比較することでその意味が明瞭になる。

「イエス」は、解剖学のノートから写したような、きわめて正確な肉体を持った人物として描かれている。だが、美しくはないし、精神的でもない。「洗礼者ヨハネ」も同様だ。彼は聖書にこう描かれた人物。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。・・・ヨハネは、らくだの皮衣を着、腰に革の帯をしめ、いなご(イナゴマメも参照)と野蜜を食べ物としていた。」(『マタイによる福音書』3章1節~4節)

 荒野での飢えた生活を送るヨハネを、ヴェロッキオはあばら骨が出たやせこけた姿に描いている。イエス同様非常に写実的ではある。他方、レオナルドの描いた天使はどうか。レオナルドがこの天使を描きあげた時、それを見た師匠のヴェロッキオは生涯絵の筆を折ったとジョルジョ・ヴァザーリは書いている。

「若輩にもかかわらず、レオナルドはこの天使を非常に巧みに描いたため、アンドレア(ヴェロッキオ)が描いた他の人物像よりもはるかに美しく見えた。これを見たアンドレアは以後二度と絵具にふれようとしなかった。こんな少年がじぶんよりもずっと画技に通じていることに恥じ入ったためである。」

  一体何が起きたのか?レオナルドの描いた天使に、絶対にそれまでの絵画にはないものが表現されていたのだ。それは何か。第一は「理想的な美」の表現。ヴェロッキオのイエス、ヨハネは確かに正確で写実的だ。河の水を通して透けて見えるイエスの足も印象的で、その水は川床の上を本当に流れているように見える。しかし美しさに欠ける。それに対して、この天使の姿形はたとえようもなく美しく優しい。現実に離反しているものなど何一つなく、かえって微妙でち密な描写があるくらいだが、そこに現実以上の美が加えられている。ケネス・クラークはこう言う。

「レオナルドの天使は、ヴェロッキオがはいり込んだことのない想像の世界の産物である。その鼻、頬、顎の線はすべて理想の極地を示している。」

 第二は「精神」の表現。ヴェロッキオのイエス、ヨハネは写実的だが表層の現実の描写にとどまっている。無表情で、感情が全く描かれていない。しかし、レオナルドの描いた天使のひとみは憧れにきらめいていて、唇は声を発しているかのように見える。 解剖学を学び、遠近法を知り、さらに光と陰の明暗というリアリズムをすべてマスターした時、レオナルドは、リアリズムの上に理想的な美と精神表現を付け加えたのだ。この天使によってレオナルドは15世紀ルネサンスの自然主義、写実主義を終わらせ、時代精神の飛躍を行ったのである。

 (ヴェロッキオ「キリストの洗礼」ウフィツィ美術館)部分

(ヴェロッキオ「キリストの洗礼」ウフィツィ美術館)全体

(ヴェロッキオ「キリストの洗礼」ウフィツィ美術館)部分

(ヴェロッキオ「キリストの洗礼」ウフィツィ美術館)部分

(ジョット「キリストの洗礼」スクロヴェーニ礼拝堂)

中世からルネサンスに抜け出したばかりのジョットが14世紀初めに描いた作品。写実性の点でヴェロッキオに劣るが、精神性はジョットの方が高いと言われている。

(ピエロ・デラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」ロンドン ナショナル・ギャラリー)

川面にちゃんと空が映り、すべてが秩序と安定感に満ちているが、どこか虚構の感じがありリアリティに欠ける。

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