「夏の風物詩 朝顔」③

 「アサガオ」の学名「ファルビラティス・ニル」の「ファルビラティス」はギリシア語で「色」を意味し、花の色が豊富なことに由来。しかし、「アサガオ」を園芸観賞用として本格的に改良を進めたのは日本だけで、世界的には「Japanese morning glory」という呼び名で知られている。日本の気候に適していたのだろう、アサガオは日本の風土に育まれて目ざましい発展を見せた。草花の品種改良が盛んに行われていた江戸時代に江戸を訪れた(1860年)イギリスの植物学者のロバート・フォーチュンは、江戸を「世界一の園芸都市」と称賛したほどだ。

 その江戸時代、空前の朝顔ブームが2度訪れる。第1次朝顔ブームは文化・文政期(1804~1830)。発端は、1806年に起きた「丙寅の大火」。この火事により、下谷(現在の東京都台東区。江戸時代の下谷は現代よりも広い地域をさし、いまの御徒町も含まれた。この地名は「歩兵」「下級の侍」である「徒(かち)」が住んでいたことから名づけられたが、彼らも内職で朝顔を栽培するようになった)に大きな空き地ができたため、植木職人たちはそこで品種改良した朝顔を栽培し、「下谷の朝顔」と呼ばれ人気となった。特に、「変化朝顔」呼ばれる、一風変わった姿の朝顔が人気を集めた。『江戸名所花暦』は、次のように記す。

「牽牛花(あさがお)  下谷御徒町辺

 朝顔は往古(むかし)より珍賞するといへども、異花奇葉(いかきよう)の出来たりしは、文化丙寅(文化3年1806)の災後に下谷辺空地の多くありけるに、植木屋朝顔を作りて種々異様の花を咲かせたり。おひおひひろまり、文政はじめのころは、下谷、浅草、深川辺所々(ふかがわへんしょしょ)にても もつぱらつくり、朝顔屋敷など号(なづ)けて見物群集せしなり。』

 現在では朝顔といえばまずだれもがラッパ型の花を思い描くに違いないが、この時流行した「変化朝顔」はそんな朝顔のイメージとはかけはなれた奇妙キテレツなものだった。風車のようなものがあったり、花弁が細く長く垂れ下がった居て花火のようだったり、また葉が松葉状だったり、茎が平べったく帯のようになっていたりなど、実に千変万化な形状だった。

 やがて下谷御徒町が復興して空き地が点在するだけになってしまうと、上野をはさんで入谷(いりや)でアサガオの栽培がはじまる。嘉永・安政期(1848~1860年)の第2次朝顔ブームだ。多数の朝顔図譜や、「花合わせ」(品評会)に出品された朝顔の優劣を記した番付表が出版されている。牡丹咲きや八重咲きのように花弁の枚数を増やした豪華なものなどさまざまな朝顔が作り出された。観賞用として、大名や御家人、僧侶、裕福な商人の間でもてはやされ、自らその栽培にまでも熱中。変化朝顔は大変な高値で取引されたため、植木屋はもちろんのこと、下級武士や一般庶民までが変化朝顔の栽培に精を出した。

 この第2次ブームの立役者は、植木屋の成田屋留次郎(実名は山崎留次郎だが、八代目市川団十郎のファンであったため成田屋を名乗ったといわれる)。行動力のあるまとめ役タイプで、彼を中心に、京・大坂とも連携した「花連」が主力となって武家・町人にこだわらない人的交流が誕生した。その中には北町奉行・鍋島直孝(佐賀鍋島藩主・鍋島斉正の兄)までいたというから驚きだ(「杏葉館」と号し、『朝顔三十六花撰』に序文を書いている)。 ところで、庭木を植える土地などもたない長屋の住人達は鉢植えの朝顔を楽しんだ。この鉢が作られたのは今戸(現在の台東区今戸)。ここは瓦焼で有名だった(今戸焼は江戸名物の一つで、錦絵には今戸焼を焼く窯と煙が描かれることが多い)が、朝顔ブームで鉢も生産するようになったのである。

( 「変化朝顔」いろいろ①  『朝顔三十六花撰』より)

( 「変化朝顔」いろいろ②  『朝顔三十六花撰』より)

(広重「名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈」)

画面手前からもくもくと立ち昇るのは、「今戸焼」(主に瓦や素焼きの人形)を焼く煙。黒いひょうたんのような形は窯。

(広重「東都名所ノ内 隅田川八景今戸夕照」)瓦がはっきり描かれている

(月岡芳年「風俗三十二相 めがさめさう」)

起きたばかりで気だるそうに胸をはだけ、歯を磨きながら朝顔を眺める寝ぼけ眼の女。芳年が描くと朝顔も妖艶に見えてくるから不思議だ

(豊原周延「東風俗 福つくし 朝顔」)

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