「リミニのビーチ」
イタリアのアドリア海側は、砂浜が延々と続いていて風景としては、山が海岸近くにまで迫っているティレニア海側と比べ単調。多様な魚をシュノーケリングで楽しむこともできない。そのかわり、たっぷり楽しめることがある。それは《Passeggiata》(パッセジャータ、散歩)。最初目にしたときは何をしているのかと思った。水辺をただ歩いている。ある地点まで行くと、Uターンして戻ってくる。一人か二人で。黙々と歩いている人もいれば、会話しながらゆっくり歩いている人もいる。時々は明らかにトレーニング(ジョギング)していると思われる若者もいるが、大半は中高年者でゆっくり歩いている。日本のビーチと違って中高年の割合が高いのも特徴。女性は圧倒的にビキニ。しっかりペディキュアもして。このPasseggiata、今ではビーチホテル滞在の楽しみになった。朝の陽ざしがまださほど強くない朝食後の時間に、心地よい潮風を感じながら、規則的に打ち寄せる波音の中をまだ十分には温まっていない水際に足跡を残しながら片道2~3キロほど歩く。ずいぶん前になるが、誰かがこんなことを書いていた(一時期「チョイ悪親父」で有名になったパンチェッタ・ジローラモ[ナポリ人]だったかもしれない)。「イタリア人はバカンス中、おそろしく何もしない」と。「何もない」とは何かをするのに目的意識を持たないということ。泳ぐにしたって、泳ぎが上達する、などという目的を持ってはいけない。貸別荘に滞在するにしても、洗濯もしないから膨大な量の衣服を持って出かける、などと。まあ、イタリア人の書くことだから大げさに書いているのだろうと最初は思っていたが、実際に知り合ったイタリア人たちの1週間の生活を見ていると決してそれも大げさではないと思うようになった。フィアスケリーノ(ラ・スペーツィアからレーリチに行き、さらにそこからタクシーで10分程のリゾート地)で出会った大学教授。″Il Nido″という部屋数30ほどのプライベートビーチがあるホテルでのこと。その教授(professore)は、毎日ビーチに来るのだけど、することはひざまで海水につかりながら分厚い本を立ったまま陽を浴びながらひたすら読んでいる。偏屈な様子はまるでなく、時々知り合いと話もする。夜、別れた(知り合った洞窟住居で世界遺産になっているマテーラ出身の家族が教えてくれた)裁判官の奥さんとジェラテリアで楽しそうにジェラートを食べているのも目にした。1週間滞在したが、彼のビーチでの過ごし方はずっと変わらなかった。周りも誰も気にする様子もない。彼にとって、それが一番気持ちいいヴァカンスの過ごし方だったのだろう。自由な過ごし方だったのだろう。ヴァカンス中も仕事から離れられない、というのとはまるで違う。イタリアに惹かれた理由の一つがこれ。こうじゃなきゃいけない、こうあるべきだ、っていう型にはめる強制力がない。よく言えば自分をとことん大切にする、悪く言えば完全なジコチュウ(自己中心主義)。これなら日本のように、毎年自殺者が3万人を超えるなんてことは起きようはずがない。1等列車でも大きな声でスマホでしゃべり続けるイタリア人も困ったものだが、日本人はもう少し人目を気にしすぎないで自分に正直に生きてもいいように思う。
(今朝のリミニの海岸 パッセジャータを楽しむ人たち)すぐ後ろを我々も歩いている
(ビーチの様子 我々のビーチチェアからの眺め)
(フィアスケリーノのホテルIl Nidoのプライベートビーチ)
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