「上野戦争と大村益次郎」②
大村の現状分析。まず、自軍(新政府軍)について。実は、この時の政府軍は組織がバラバラで長期戦に堪えられるような状態になかった。特に薩摩と長州。いったんは薩長同盟を結んで倒幕に向けて協力体制を築いたが、たがいの敵対意識は容易には払しょくできないほど根深かった。長期間緊密な連携を維持するような作戦は無理。大村は1日で決着をつける作戦を練る。では敵軍の状況はどうか。彰義隊はもともと幕府の旗本や御家人だった人々。そのため市中の自宅に潜んでいる者も多く、彼らを1か所に集めなければ効率的に壊滅させることは不可能。以上のような、敵、味方の状況を踏まえて大村が取った策の第一は、攻撃の日時、場所を公にする事。具体的には、「来る五月十五日 上野の山の賊徒を討伐する」というお触れを5月5日頃に出したのだ。手の内をさらす危険を承知でこの策を出した狙いは三つ。まずこれによって、彰義隊は上野での決戦に備えて市中に散らばっている自軍を上野に集結させることになる。また、その日だけであればバラバラな政府軍もなんとか連携して戦闘に臨める。さらに、このお触れには重要な意味があった。上野に集まった彰義隊の隊士達の中にはしがらみや付き合いで安易に参加したものも少なからずいた。その連中に本当に戦いに加わるのかどうかを冷静に自問する時間を与えるという意味である。事実、5月15日の決戦までに3000人程いた彰義隊は1000人足らずにまで減少したと言われている。
しかし、ここまではあくまで戦いの準備の前段。1日で決着させるには、どう効果的に壊滅させるかの戦術が最大の課題。上野の山の入口は黒門(現在「壁泉」があるあたり)。ここでの正面突破が最大の鍵。そこに配置するのは最強部隊。となると当然薩摩軍。しかし、大村は長州の人間。そこに薩摩軍が配置されることが事前洩れれば、薩長の溝が修復不可能なまでに深まり、政府軍が内部崩壊することは必至。大村は作戦内容をただ一人を除いて明らかにしなかった。その人物とはだれか。西郷だ。作戦を聞いた西郷は言った。
「薩摩の兵を皆殺しにするおつもりか」
大村は何と答えたか。黙って天を仰ぎながら扇子をもてあそび、ただ一言「そのとおり」と言った。それを聞いた西郷隆盛は無言で席を立ち、部屋を出て行ってしまう。しかし、その後とった行動が西郷の真骨頂。大村益次郎が同席していない会議の場で、この作戦について次のように語ったという。
「大村に私を一番難しいところへ出してくれと申しておきました」
(ただし、これは『防長回天史』にだけ伝聞という但書つきで記載されている話だが、いかにも象徴的な話だと思う)
これで、薩摩軍は大村や長州に対する恨む、憎しみを抱くことなく黒門口への配置につくことが可能になった。西郷の行動を見越した大村の冷徹さ、薩摩軍をまとめ上げる西郷の人望、人心掌握術。どちらかが欠けても大村の緻密な作戦も絵に描いた餅で終わっていただろう。冷徹、明晰な知と熱く、深い情(もちろん西郷には薩摩の利益を相対化し、日本国の利益を優先させるだけの広い視野があった)はおそらく組織が十全に力を発揮していくうえで不可欠の要素なんだろう。
(広重「東都上野花見之図 清水堂」)
(広重「江戸名所 上野花盛」)
(広重「東都花暦 上野清水之桜」)
(「大村益次郎像」靖国神社)
(肥後直熊 「西郷隆盛」黎明館)
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