「上野戦争と大村益次郎」①

 今日はカルチャーセンターの野外講座。初めて、野外でのガイド。場所は上野。不忍池の蓮が見ごろと考えたこともあったが、想定外の暑さ。昨日、直前の下見を行って、極力日蔭のコースを設定したり、移動距離を最短になるように当初の予定を変更したりしたが、それでもこの暑さでは歩くのは1時間半が限界。それにしてもこの暑さの中、元気で歩き回る外国人の多さにはびっくり。

 この数カ月、少しずつ「上野」について考えてきた。上野に限らす、「ローマ」、「ルネサンス」、「大航海時代」、「高杉晋作」など講演会で扱う人物テーマについて、理解するキーワード、その本質について考えてきた。細かい知識ではなく、それを理解することでわれわれ自身が生活、人生を考え、再発見する視点を持てるようになることを考えてきた。いつ何時人生が突然中断することになったとしても、後悔なく静かに人生を終えられるようにしたいから。もちろん、すぐに結論など見えてはこない。それでも、この間いくつか自分なりにつかんだことはある。上野という場所を理解する上で、キーマンは天海僧正と大村益次郎ではないかということ。

 天海のすごいところは、東の延暦寺として東叡山寛永寺を創設しながら、そこを庶民にとっての一大レジャーランド(春の桜、夏の蓮、秋の黄葉、冬から初春の梅、雪見)としたこと。それから、江戸無血開城後の上野戦争。寛永寺自体は焼け野原となってしまったが、それでも一日で上野戦争を終結させ、江戸における戦乱を最小限にした功績はなんといっても大村益次郎の緻密な戦術にあったということ、あまり知られていないが。

 後者について記そう。新政府側の西郷隆盛、幕府側の山岡鉄舟そして勝海舟、彼らが江戸無血開城を実現し、江戸が火の海になることから救ったのは確かだ。しかし、その後も江戸が火の海になる危険性は残り、それ回避した最大の功労者は大村益次郎だということはあまり知られていないように思う。そのあまりに合理主義的な性格が日本人には受けないのかもしれない。しかし、歴史を振り返った時、それを動かしてきた中心(それだけとは言わないが)に冷徹な知性があったことは忘れてはいけない。

 慶応4年4月11日、江戸城は無血開城され新政府軍が入城した。江戸は新政府の支配下におさまったかにみえた。ところが、戦うことなく江戸を明け渡し、新政府に従うことに反発する幕臣たちがいた。彰義隊だ。彰義隊はもともと15代将軍・徳川慶喜の護衛のために結成された新鋭部隊。しかし、幕府が政権を返上したことで行き場を失い、江戸に残ったままだったのだ。彼らのもとには新政府に不満を抱く者たちも結集してきた。その数約3000人。2つの勢力が同居する江戸の街は不穏な空気に包まれ、双方の小競り合いが絶えず、ついには彰義隊士が新政府軍の兵士を殺傷するという事件まで起こった。この期に及んでも、西郷や勝は事態の収拾を計れない。このまま江戸の乱れを放置していては新政府の基盤が揺らぎかねないと、新政府の首脳陣は業を煮やした。どうしたか?西郷を更迭し、新たな司令官として彰義隊を鎮圧する大役を大村益次郎に任せたのだ。大村は、第二次長州戦争で30倍とも言われた幕府軍に対して、長州軍を連戦連勝に導いた近代戦の司令官。その実力を買われたのだ。5月1日、大村は江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲されるとともに、江戸府知事兼任となり市中の全警察権を収めた。大村は、彰義隊を壊滅させ治安を回復するために、まず敵味方の状況を入念に分析する。大村は、どのような分析結果を導き出し、どのような作戦計画を立案したのだろうか? 

(広重「東都名所 上野東叡山全図」)

(歌川 芳盛「本能寺合戦之図」) タイトルとは違って、描かれているのは上野戦争 

 右手が黒門。正面が清水堂

(広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」)

(「上野戦争  清水堂付近での戦い」)

(一景「東都名所四十八景 上野黒門前花見連」)花見連の先に見えるのが黒門

(「彰義隊奮戦之図」円通寺蔵)黒門付近での一進一退の攻防

(キヨッソーネ「大村益次郎」)

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