「文月は恋の月」
七月の異名は「文月(ふみづき)」。稲作との関係で、「穂含月(ほふみづき)」、「含月(ふくみづき)」、「穂見月(ほみづき)」からの転とする説もあるが、有力説は「文披月(ふみひらきづき)」が転じたとする説。つまり、短冊に詩歌を書き献じた七夕の行事にちなむとする。小泉八雲は『天の川幻想』のなかでこう記している。
「七月の月は「たなばたつき」と呼ばれた。また「ふみづき(文月)とも呼ばれたが、それは七月七日には天上の恋人たちを称える歌が至るところで詠まれたからである。牽牛と織姫の出会う様子は目のよい者なら誰でも見ることができるといわれている。それが起こるときに決まって、この二つの星が五色の色に燃え立つからだ。「たなばた」の神々に五色の供物をあげるのも、また五色の色紙に星を讃える短歌を書くのもこのためである。」
ところで、奈良時代に編纂された日本最古の歌集である万葉集には、驚くほど多くの七夕の歌がのっている。なんとその数百三十首を越える。そして、そのほとんどは牽牛、織女になりきって詠んだ歌で、我(男)と妹(女)のまっすぐな恋心が表現されている。
「天の川 水蔭草の秋風に 靡(なび)かふ見れば 時は来にけり 」(柿本人麻呂)
(ついに、待ちに待った一年に一度の逢瀬のときがやってきた)
*「水蔭草」=水に影を映している草
「天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし 君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」(山上憶良)
(いよいよ、愛しいあの方がお出でになるらしい。衣の紐を解いてお待ちしましょう。)
織女のストレートな恋心。いかにも万葉集らしい。
「一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の 恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
(柿本人麻呂)
(7月7日の一夜だけしか会えない二人の苦しさもまだ晴れないうちに
夜はいたずらに更けてしまう)
「相見らく 飽き足らねども いなのめの 明けさりにけり 舟出せむ妻」(作者未詳)
*「いなのめ(稲の目)の」=「明け」の枕詞。窓がない古代、「明かり取り」や「煙出し」の
部所に藁(わら)で編んだ網目の ようなものを取り付けていた
(いつまで逢っていても飽き足りないけれども夜が明けてしまった。もう帰らなければならない)
今では、七夕というと笹竹に願い事を書いた短冊を飾ることが中心になったが、これは江戸時代に広まった風習のようだ。今と違って江戸時代の笹竹は、さまざまな飾り物によって彩られていた。 「七夕祭とて、色紙結ひ付たる竹に、酸漿(ほおずき)を幾箇となく数珠の如くつらねたるを結び、又色紙にて切たる網、並に色紙の吹流し、さては紙製の硯・筆・水瓜の切口・つづみ太鼓・算盤・大福帳 などをつりて、高く屋上に立つること、昨日よりなり。」(『江戸府内絵本風俗往来』)
また、7月6日に子どもたちが書道の上達を願って硯を洗う「硯洗い」も行われ、この硯で七夕の短冊を書いた。また、七夕の夜、七枚の梶の葉(「天の川へ渡る船の楫(かじ)となって願いが叶えられる」と信じられ、平安貴族たちは梶の葉に願いごとをかいて川に流していた)に芋の葉の露ですった墨で詩歌を書き、芸事の上達や恋の成就を願った風習もあり「梶の葉」といった。
「天の川 と渡る舟の 楫の葉に 思ふことをも 書きつくるかな」(上総乳母 後拾遺和歌集)
(天の川の瀬戸を渡る船の梶と、梶の葉が掛けられている)
「秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天のとわたる梶の葉に、思ふ事書く比なれや。」
(『平家物語』巻第一「祇王」)
*「星合(ほしあひ)の空」=七夕の夜空
「天(あま)のと」=天の川の瀬戸(「狭門【せと】」の意で幅の狭い海峡)
(豊原周延「江戸砂子年中行事 七夕之図」)
(豊原周延「江戸風俗十二ヶ月之内 七月七夕筋違」)
(鈴木春信「円窓七夕短冊かき美人」)
(国芳「稚遊五節句之内 七夕」)
(清長「子宝五節遊 七夕」)
(清長「子宝五節遊 硯洗い」)
(梶の葉)
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