「江戸の七夕」
7月7日、江戸の人々は澄んだ夜空に横たわる雄大な天の川を見て秋の到来を実感したという。そう、江戸時代は旧暦だから7月は秋。今の8月中旬から下旬。もちろんとっくに梅雨は空け、盆も終われば虫の鳴き声、朝夕の空気から秋の気配が漂い始めるころだ。それが、新暦に変わっても旧暦のまま7月7日を七夕としているのだから、例年なら梅雨の真っ最中。星空に出会えることなどめったにない。7月に「愛逢月」(めであいづき、)という異名があったり、七夕を「星祭り」ともいうことなど、全くピンと来なくなってしまった。
7月7日の夜は、牽牛・織女の二つの星が天の川を渡り、1年に一度の逢瀬を楽しむと信じられていたが、江戸時代、この話を子供たちにどうやって教えていたか。『五節供稚童講釈(ごせっくおさなこうしゃく)』(天保2【1831】)が参考になるが、読んで笑ってしまった。
「たなとは天をいふ。たなびく雲、たなびく霞、いずれも空をいふなり。ばたとは機(はた)のはたを濁りて、ばたという。天にて機織るといふ事を約(つづ)めて、たなばたといふなり。・・・七月七日の夜、一年一度契り給ふといふ事、その趣を俗に申せば、天帝のお姫様に織女とて、機織る事が上手にて、・・・もはや年頃にもなりたれば、男も欲しからんとて、天の川の西に牽牛とて一人住む男星に、織女を妻(めあわ)せ給ひしに、あまり中がよすぎて、機織る事もせず、夜昼吸付いてばかりい給ひしゆえに、天帝大いに怒り給ひ、織女を呼び返し、この後は一年に一度、七月七日の夜、天の川を渡りて会いに行くべし。そのほかは決してならぬと、厳しく申付け給ひしゆえ、詮方なく年に一度を待ちわびて契り給ふとなり。女中方の宿下りに、一年一度の芝居を見ると同じ心なるべし」
ストレートというか、おおらかというか。また、短冊に願い事を書くのに、芋の葉の露を硯の水にしていたが、その由来についてもこう説明している。
「昔よりする事なり。七夕様、一年一度会ひ給ふゆえに、一夜に百人の子を儲け給ふといふ俗説によりて、子育て、または子を授け給へと祈る者、芋の葉の露にて願ひ事を短冊へ記して献ぐれば、願ひ事叶ふといふ。芋は子の沢山あるものゆえに、その葉の露を墨にすることと、昔の書に記せり。」
七夕を描いた浮世絵は多いが、子どもだけでなく大人も真剣に短冊に書き、それを笹竹に結ぶ姿(歌麿「七夕」、春信「円窓七夕短冊かき美人」、春信「七夕の飾りつけをする男女」、国貞「豊歳五節句遊 七夕の節句」、渓斉英泉「新吉原年中行事 岡本屋内 長太夫 七月七夕星祭灯篭」など)数多く描かれている。生きることへの迷いのない貪欲さが伝わってくる。江戸の街中に短冊だけが翻るさまは、浮世絵で見るだけでも壮観だ(広重「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」、広重「不二三十六景 大江戸市中七夕祭」など)。画面から、生きるエネルギーが溢れている。
(広重「不二三十六景 大江戸市中七夕祭」)
(広重「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」)
(月岡芳年「月百姿 銀河月」)
(歌麿「七夕」)
(春信「円窓七夕短冊かき美人」)
(春信「七夕の飾りつけをする男女」)
(国貞「豊歳五節句遊 七夕の節句」)
(渓斉英泉「新吉原年中行事 岡本屋内 長太夫 七月七夕星祭灯篭」)
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