「ルネサンスと『神の怒り』」

  「ルネサンスRenaissance」は、「再生」を意味するフランス語で、古典古代(ギリシア・ローマ)の文化を見直し、中世的な神中心のあり方から脱して、人間中心のあり方へと価値意識の転換を図ろうとする運動、と言われる。そのイメージを象徴する作品はおそらくボッティチェリ(1445-1510)の「ヴィーナスの誕生」だろう。中世キリスト教社会が否定してきた古代ギリシャ・ローマ世界(多神教世界)の神々のひとりヴィーナスが裸体で描かれているのだから。しかし忘れてはいけないのは、当時このような絵画を快く思わない人々が多数存在していたということ。ボッティチェリよりは少し前の世代だがギベルティ(1381頃-1455。1401年、フィレンツェのサン=ジョバンニ洗礼堂の扉の彫刻制作者を決めるコンクールで優勝し、その制作にあたり25年かかって完成させた。)は、『フィレンツェの彫刻家に関する覚書』の中でこんな話を載せている。

「かつてシエナの町で、ヴィーナス像が見つかった。町の人々はそれをとても喜んで、フォンテ・ガジャ(陽気な泉)のそばに像を据えた。人びとは大勢でやって来てはヴィーナスを褒めたたえた。しかし、フィレンツェとの間に戦争が始まると、市民会議の席上で市長が立ち上がってこう言った。『諸君!キリスト教会は偶像崇拝を禁止しています。つまり、私たちの軍が敗北を喫しているのは、町の中心部に据えられたヴィーナスのせいではないでしょうか。神の怒りが私たちの上に落ちているのです。それゆえ私はこう申し上げたい。ヴィーナス像を壊してフィレンツェの地に埋めてやりましょう。そうすれば天の怒りも敵地へと引き付けられるでしょうから』」

  社会を不幸が襲い、下り坂になれば神の罰、神の怒りの名のもとにいとも簡単に斥けられた古典古代(ギリシア・ローマ)の文化。「プリマヴェーラ(春)」、「ヴィーナスの誕生」を描いたボッティチェリの後半生がそのことをよく物語っている。1492年、イタリアのルネサンス最盛期のメディチ家当主でイル=マニフィコ(偉大な人)と言われたロレンツォ・デ・メディチが死去。親友でありパトロンでもあったロレンツォの死の悲しみは、ボッティチェリを狂信的な修道士ジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)に心酔させることになる。サヴォナローラは説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判。異教的なものを排除すべく、シニョーリア広場で市民から没収した書物や絵画を集め、焼却してしまう。その中にはボッティチェリの作品もあり、自ら差し出したものとされている。サヴォナローラは言う。

「 私は幻想の中で、一本の黒い十字架がローマのバビロンの上に立っているのを見た。その十字架には『神の怒り』の文字が書き込まれており、その上から、剣、刀、槍、その他のあらゆる武器、さらに霰や瓦礫が激しい嵐と恐ろしい電光とともに、闇のように暗い中に降り注いでいた。また私は、もう一本別の金の十字架が天から地上のエルサレムまで降りて来るのを見た。その十字架には、『神の慈悲』と書かれてあり、そのあたりには、明るく澄みきった静かな雰囲気が支配していた。・・・」(『詩篇についての第三の説教』1495年) 

 ボッティチェリが1497年に描いた『神秘の磔刑』はこの説教を視覚化した作品。10年ほど前に「ヴィーナスの誕生」(1485年頃)を描いた画家の作品とは思えない暗く中世的雰囲気に満ちた作品。ボッティチェリは、「サヴォナローラ党の熱心な支持者で、それが原因で画業を棄て、生活のための収入もなくなってしまったので、たいへんな困窮におちいった。・・・仕事を放棄してしまったのである。そして最後には年老いて文無しになってしまった。」(ヴァザーリ)という。

 ボッティチェリの7歳年下のレオナルド・ダ・ヴィンチが生きたのはイタリア戦争によってイタリアがさらに混迷の度合いを深めた時代。その中にあって、ルネサンスの精神「あくなき探究心」を失わずに生き抜いたレオナルドはやはり驚異的と言っていい。なぜ彼はそのような生き方を貫けたのか。その不思議、魅力を探りたい。

(ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」ウフィツィ美術館)

(「メディチのヴィーナス」ウフィツィ美術館)

(ボッティチェリ自画像)

(フラ・バルトロメオ「」サン・マルコ美術館 フィレンツェ)

(ボッティチェリ「神秘の磔刑」マサチューセッツ州フォッグ美術館)



 

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