「1182年7月5日アッシジのフランチェスコ誕生」

  ハプスブルク家カール5世と争いイタリア戦争を展開したフランス国王で、レオナルド・ダ・ヴィンチなどルネサンス芸術の保護者としても有名なのはフランソワ1世。イギリスを代表する哲学者で、「知は力なり」という名言を残したのはフランシス・ベーコン。イエズス会の創設メンバーの1人で、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたのはフランシスコ・ザビエル。マリア・テレジアの夫でフランス革命時、断頭台の露と消えたマリー・アントワネットの父親はフランツ1世。共通しているのは名前。イタリア語の「フランチェスコ」は、1182年の今日(7月5日)アッシジで生まれた聖フランチェスコに由来するが、言語が変わると「フランソワ」(フランス語)、「フランシス」(英語)、「フランシスコ」(スペイン語、ポルトガル語)、「フランツ」(ドイツ語)となる。この名前は、2013年に就任した現ローマ教皇フランシスコによって広く知られるようになった(もちろんサンフランシスコも「サン・フランシスコ」=「聖フランシスコ」だが、人物名として理解している人は多くはないようだ)。

 現在でこそ欧米の男子名としては実に多い名前だが、それらはみなアッシジの聖フランチェスコにあやかろうとして名付けたもので、1182年当時、「フランチェスコ」という名前は、存在しなかった。それもそのはず。「フランチェスコ」とは「フランス人」という意味だったのだから。なぜ、フランチェスコの父親は息子にこのような名前を付けたのか?それは、裕福な毛織物商だった父親が商用で南フランスのアヴィニョンに滞在中に知り合った女性、つまりフランス人と結婚して生まれた子がフランチェスコだったからだ。

 「西欧の歴史上の最大の精神革命、聖フランチェスコ」(リン・ホワイト)とも称せられるが、彼がキリスト教会にもたらした革命とは何だったのか?

 それまでの聖職者の説教は、厳格な戒律と罰則によって人間の原罪を強調し、最後の審判やハルマゲドンをちらつかせて地獄の恐怖で大衆を精神的に支配しようとするものだったが、フランチェスコはそれに疑義を呈した。そして、キリスト教をイエス・キリストが本来目指した「愛と寛容の宗教」に立ち戻らせようとした。また、俗世を捨てて人生を神に捧げた自分達を特権階級扱いするような聖職者の権威主義や権力志向の中には神の真の教えは存在しない、わざと難解で高尚な教養を振りかざし、民衆が理解できないラテン語でしか聖書を書かないことはおかしい、とした。高い教養を持っていなくても、高尚難解な学問に励んでいなくても、敬虔な信仰は実現できる、神の前にあっては、聖職者も庶民もその存在の価値は全く異ならず等しい、とした。そして民衆が、理解できないラテン語で説教・祈祷を行うは、信仰の本質を踏み外す事であるとして、「自分自身の頭で考え、感じ、理解する事の出来る日常言語」で説教をし、祈祷を行った。さらに彼は、「聖俗」の区別をすることの無意味さを説き、聖にあっても俗にあっても各々の人間が信仰心を持って、それぞれが果たすべき任務や職務を果たせばよいと説いた。つまり、専門的に神への祈りや学問を行う「司祭階級や修道士階級」と世俗社会で働きながら生活する「民衆・俗人」との間に、優劣の価値判断をする事は間違っていると考えたのだ。聖なる信仰生活をしたければ教会や修道院に入ればよいし、俗なる日常生活をしたければ世俗にとどまればよいとした。フランチェスコは宗教教団間の権力闘争や非難中傷にも興味がなく、ドミニコ修道会などからの非難中傷にも全く反論や批判をせず、ただ忠実に神の教えを守ればよいという姿勢だった。

 イエスの教えの核心が「愛と寛容」にあることを思い起こさせ、宗教改革に取り組んだ聖フランチェスコ。その教えはシンプルだが、実行は容易ではない。彼が死ぬとその教団はすぐさまに腐敗堕落しはじめる。直接彼と接し、直に教えを聞いた人々ですらそうだったのだ。

 (ギルランダイオ「火の試練」フィレンツェ サンタ・トリニタ教会)

1219年、フランチェスコは第5回十字軍が駐留するエジプトにわたり、スルタンと会見しキリスト教への改宗を迫った。この時、フランチェスコはイスラーム法学者と、燃え盛る炎の中に飛び込んでどちらに神の庇護があるかを競おうとしたと伝えられる。

(ジョット「着物を返すフランチェスコ」  アッシジ 聖フランチェスコ教会)

着ていたものを全部脱いで父に返し、世俗とのきずなを完全に絶ったフランチェスコ

(ジョット「教皇インノケンティウス3世に謁見するフランチェスコの一行」 アッシジ 聖フランチェスコ教会)

1210年、仲間の数が12人になっていた「小さき兄弟団」(フランシスコ会)はローマに向かい、教皇イノケンティウス3世に謁見し、活動の許可を求めた。

(ジョット「肩でラテラノ大聖堂を支えるフランチェスコ」 アッシジ 聖フランチェスコ教会)

 最初、教皇は汚れたぼろを纏ったフランチェスコたちに不快に感じたとも伝えられているが、何度かの謁見の後、口頭によるものではあったにせよ、「小さき兄弟団」の活動に認可を与えた。聖人伝によると、教皇は夢の中で傾いたラテラノ聖堂をたった一人で支えた男の姿を見ており、その男こそがフランチェスコであると悟ったからだという。

(エル・グレコ「祈りを捧げるフランチェスコ」ビルバオ美術館)

(メムリンク「最後の審判」グダニスク国立博物館) 右側に地獄が描かれている

0コメント

  • 1000 / 1000