「『生きんとする生命』に囲まれた人間」

 キリスト教の立場に立って、偏狭な人間中心主義から解放されていた二人の人物(一人は小説の登場人物、一人は実在の人物)の言葉を紹介する。 

 まずは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のロシア正教の長老ゾシマ(正教会における「長老」とは、精神的に優れていると認められ、精神的指導を行う年長者)。主人公アリョーシャを始めとして、誰からも慕われ、その死後に奇跡が起きると皆が信じているような人物。

 「神のあらゆる創造物を、全体たるとその一粒一粒たるとを問わず、愛するがよい。木の葉の一枚一枚、神の光の一条一条を愛することだ。動物を愛し、植物を愛し、あらゆる物を愛するがよい。あらゆる物を愛すれば、それらの物にひそむ神の秘密を理解できるだろう。ひとたび理解すれば、あとはもはや倦むことなく、日を追うごとに毎日いよいよ深くそれを認識できるようになる。そしてついには、もはや完璧な全世界的な愛情で全世界を愛するにいたるだろう。動物を愛するがよい。神は彼らに思考の初歩と穏やかな喜びとを与えているからである。動物を怒らせ、苦しめ、喜びを奪って、神の御心にそむいてはならない。人間よ、動物に威張りちらしてはいけない。動物は罪を知らぬが、人間は偉大な資質を持ちながら、その出現によって大地を腐敗させ、腐った足跡を残している。悲しいことに、われわれのほとんどすべてがそうなのだ!」 

 もうひとりは、アルベルト・シュバイツァー。哲学者、神学者、医者であり、アフリカ(ガボン)での医療等にその生涯を捧げ「密林の聖者」と呼ばれ、1952年にはノーベル平和賞受賞した。シュヴァイツァーの思想と実践の根底にある考え方「生命への畏敬」についてこう述べている。 

「われわれは『生きんとする生命』に囲まれた生きんとする生命そのものである。考えることができる人間は、同時に全て他者の『生への意志』に自己のそれに対するのと同様な『生命への畏敬』を払うべきである。従来の倫理の大きな過ちは、ただ人間の人間に対する関係のみを問題にしている点である。人間が真に偉大になれるのは、ただ彼にとって植物も動物も人間も全て生命が生命として神聖であり、苦しむ生あらばこれを助けようと献身する時のみである」(『生命への畏敬』より)

  しかし、ことは単純ではない。熱心なキリスト教の伝道師としても知られたシュヴァイツァーの中では良きキリスト教徒であることと人種差別主義者、植民地主義者であることが矛盾なく同居していた。「植物や動物までも畏敬の対象とできるから、当然同じ人間に対しても畏敬の念をもって接することができる」わけではない。全く異質な「植物や動物」だから人間と違って畏敬の対象にできるという側面があるのだ。また、ドストエフスキーは反ユダヤ主義的な主張を死去するまで繰り返し、ナチス政権で国民啓蒙・宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスは若い頃よりドストエフスキーの影響を深く受け、「我々は彼の後についていく」とドストエフスキーの弟子を自認した。 異質な他者との共生、共存への道のりは、絶望的な気分になるくらい険しい。

 (ヴァシリー・ペロフ「フョードル・ドストエフスキーの肖像」トレチャコフ美術館 モスクワ)部分

(ドストエフスキー)

(ロシア国営テレビ版『カラマーゾフの兄弟』)


(聖パイシイ・ヴェリチコフスキイの肖像) 代表的なロシア正教の長老

(アルベルト・シュヴァイツァー)

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