「小鳥に説教する聖フランチェスコ」

  キリスト教の人間中心主義の中に「環境問題の元凶」を見出す人が少なくないが、その人間中心主義のもとは『旧約聖書』の次の記述だろう。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創世記1章 26節~28節)

 しかし、忘れていけないのはこの文章の前に書かれている記述。

 「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。」 「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。」 「神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。」 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

  神は人間を含む全ての被造物から成る全世界を「良し」「極めて良かった」、つまり価値あるものとされた。そのように神から祝福された人間以外の被造物を人間が破壊することを神が許すはずはない。「地を従わせよ。」「生き物をすべて支配せよ。」という一節は、被造界を人間の欲しいままにしてよいというお墨付きを人間が神から与えられた意味ではなく、人間を含めた「極めて良かった。」ものを人間が破壊することなく、責任をもって統治することを求めていると読むべきではないか。

 リン・ホワイトは、『機械と神-生態学的危機の歴史的根源-』のなかで、こう述べる。 

「自然は人間に仕える以外になんらの存在理由もないというキリスト教の公理が退けられるまで、生態学上の危機はいっそう深められ続けるであろう。」

  そのように警鐘を鳴らしつつ、アッシジの聖フランチェスコに立ち返るように訴えている。 

「西欧の歴史上の最大の精神革命、聖フランチェスコは、かれが自然および自然と人間との関係についてのもう一つ別のキリスト教的見解と考えていたものを提案した。かれは人間が無際限に被造物を支配するという考えにかえて、人間をも含むすべての被造物の平等性という考えをおこうと試みた。」

 神の恵みを示す自然界を愛した聖フランシスコの姿をよく表しているエピソードに「小鳥たちへの説教」がある。

「フランシスコは小烏たちに話した。 『わたしの兄弟である小鳥たちよ!お前たちは神に感謝せねばならず、いつどこでも神をほめたたえねばならない。というのは、お前たちはどこへでも飛んでゆけ、二、三枚の服、色もきれいな服装、働かなくともえられる餌、創造主のたまものである美しい歌声に、恵まれているのだから。お前たちは種をまかず、刈り入れもしないが、神はお前たちを養い、水を飲むための河や泉、身を隠すべき山や丘、岩や絶壁、巣をつくる高い木を与え、お前たちはつむがず、織らないが、神はお前たちや子鳥たちに必要な服を与える。創造主がお前たちをたいせつにされたのは、お前たちを愛している証拠である。だから、わたしの兄弟である小鳥たちよ、恩を忘れずに、いつも熱心に神をたたえなさい!』  小鳥たちはみんなくちばしをあけ、はばたき、首をのばし、小さい頭をうやうやしく下げて、さえずり体を動かしながら、フランシスコのことばを喜んでいることを示した。」(『聖フランチェスコの小さな花』)

 「もしこの世にキリスト教が無ければ、環境問題は起きなかった」、「東洋は環境にやさしく、西洋は環境にやさしくない」という言葉もよく耳にする。しかし、その議論は、《キリスト教VS非キリスト教》、《西洋VS東洋》といった新たな対立を生み出してしまい、問題の本質的な解決にはならない。それぞれが自らを自己批判、自己改革することなく異質な他者と手を携えて地球的課題に立ち向かうことなど不可能だろう。

(ティントレット「動物の創造」アカデミア美術館 ヴェネツィア )

(ミケランジェロ「天地創造」システィーナ礼拝堂)

(ジョット「小鳥に説教する聖フランチェスコ」アッシジ)


(ジョット「聖痕を受ける聖フランチェスコ」ルーヴル美術館)

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