「『放し鰻』と日本人」

  ゴッホも模写した「亀戸梅屋舗」、馬の尻を後方から見事にとらえた「四ッ谷内藤新宿」、ヘリコプターショットのようにはるか上空から俯瞰した「深川州崎十万坪」など広重の『名所江戸百景』には、意表を突く大胆な構図で見る者をアッと驚かせる作品が多い。そのひとつ「深川萬年橋」。亀が一匹紐で吊るされている。橋の欄干にではない。手桶の柄に吊るされている。なんのために?売り物。近くの富岡八幡宮で行われる放生会(ほうじょうえ)で使うためだ。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、後生の安寧を願うために、生きた動物を自然に返す儀式。 放生するのは亀だけではなく、鰻や雀なども代表的な生き物。それぞれ「放し亀」、「放し鰻」、「放し鳥」という。放生会が近づくと寺社の境内や川の近くで売り、露店が出たり町中を売り歩く行商人もいた。人びとは、彼らから生き物を購入し、放生を行った。

 この放生会、西洋キリスト教文化とはその根底にある動物観が大きく異なっている。西洋キリスト教社会では魂を持っているのは人間だけ。動物に魂はない。だから、魂がない動物を道具的に使っても、倫理的に問題はない、と考える。日本の場合、仏教の輪廻思想や不殺生の考え方が強く作用しているのはもちろんだが、仏教伝来以前から他のアジアの国々とは異なる独特の動物観が存在していた。 例えば雨乞い。農耕社会においては雨が降るか降らないかは死活問題だったから、必死でお祈りをする。その際、中国をはじめ東アジア地域では動物を犠牲としてささげる動物供犠が中心だった。その文化は、日本にも一部受け入れられたが、日本ではそれは形を変えた。動物を殺すのではなくて、むしろ捕まえていた動物を放生する、捕まえていた命を野に戻した。この考え方が、仏教伝来とともにより一層進んだ。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて描かれたとされる高山寺の『鳥獣人物戯画』を見ても、人間と動物の関係はきわめて近かった。

 しかし、そんな日本も、技術力の進展、産業化、近代化の中でこういった動物と人間の共生関係が大きく失われ、今は動物を一方的に犠牲にして成り立っている人間中心の社会になって変貌していった。 それでも、西洋キリスト教社会とは異なる日本人の動物観が今も残ることを示す碑が京都にある。 小高い山の上に佇み、京都の街を一望できる名所にある洛北屈指の名刹「曼殊院」。その境内にその碑はある。「菌塚」である。建てたのは、元大和化成株式会社取締役社長の笠坊武夫氏。次のような思いを込めたそうだ。

「菌塚は、これら物言わぬちいさきいのちの霊に謝恩の意志をこめて建てたものであるが、同時に菌にかかわる人々が風光に勝れたこの地を 時折訪れて、菌塚に話しかけしばし頭をやすめるとともに、菌類の犠牲に報ゆる仕事をなしとげることをめいめいが約束できたら、いかにすばらしいかと思うものである」

 新薬を開発するときにたくさんの菌を使うが、その菌を犠牲にすることに対しての罪責の念にもとづく。この感覚はまったく科学的ではないのだろうが、供養しないと何か心がおさまらないという感覚が日本にはあるということのようだ。

 高野山には、家屋の害虫シロアリを供養する「しろあり供養塔」まである。昭和34年5月に結成された日本しろあり対策協議会が、昭和43年9月社団法人に発展改組を機に、記念事業として建立したが、その建立の趣意にこうある。

「生をこの世に受けながら、人間生活と相容れないために失われゆく生命への憐憫と先覚者への感謝の象徴であり、会の進展団結を祈念するものに外ならない。」

 世界中に展開する「ケンタッキーフライドチキン」も、日本でのみ「チキン感謝祭」(供養祭)を行っているという。

 動物を犠牲にしなければ人間は生きていくことができないという痛みと感謝を覚えるような回路。これを我々日本人はかつて持っていた。このような回路を回復し、動物、植物まで含めた他者、今だけでなく将来に生きるものまで含めた他者との共存、共生の道を探らなければ、差別問題、環境問題、食糧問題など多くの課題の解決の光は見えてこないと思う。

(葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」)

(広重「名所江戸百景 深川萬年橋」

(国芳「貞操千代の鏡 仁」)盥に入っているのが鰻の子「めそ」

(国芳「山海愛度図会 にがしてやりたい 大和よしのくず」)めそを放っている

(「鳥獣人物戯画」)高山寺

(「菌塚」)京都 曼殊院

(「しろあり供養塔」)高野山


(「チキン感謝祭」)ケンタッキー・フライドチキン 東伏見稲荷神社 東京都西東京市


 

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