「清流の女王 鮎」②
鵜飼というと、現在は岐阜県長良川の鵜飼が有名だが、この漁法は古くからあり、中国南部からインドなど南アジアに広く分布している。日本では奈良時代以前から鵜飼はあり、中世には各地で鵜飼が行われていた。一般には、小船のへさきでかがり火をたいて鮎などを誘い寄せ、鵜ののどをゆるくしばった縄を、鵜匠が10~12羽分を持ってあやつり、鵜が水中で魚を呑み込んだら引き上げて吐かせる漁法が知られている。しかし、かつて多摩川で行われていたように、船を使わずに鵜匠が徒歩で川へ入り、片手にかがり火を持ち、片手で鵜1羽をあやつる「徒(かち)づかい」という漁法もあったし、船は使っても一人の鵜匠が片手で松明を掲げ、もう片方の手で3羽程度の鵜を操る漁法も行われていたことが浮世絵からも知られる。
鵜飼を詠んだ俳句として最も有名なのは次の一句。作者は芭蕉。
「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」
貞享5(1688)年、芭蕉は稲葉山(現:金華山)の麓で鵜飼を見物し、この句を詠んだ。篝火が照らす鵜飼のにぎやかさと、鵜舟が去った後に訪れる静寂と闇の対比が見事に表現されている。芭蕉はこの静寂の中に、口に入れた鮎を吐き出させられる鵜の哀れと生きるためには魚を獲らねばならない人間の宿命を「悲しき」と表現したのだろうか。以後、松尾芭蕉は魚類を一切口にしなくなったといわれている。しかしこの時は、門人たちと稲葉山の木蔭で鵜飼が始まるのを待っている席で鮎料理についての句も詠んでいる。
「又やたぐひ長良の川の鮎鱠」
「またやたぐひ」、「またたぐひ」は類の無いこと、の意で、比べるものが無いほどに優れていることの意。鮎鱠(なます)は、鮎を細かく刻んで酢であえた料理のこと。
またこの地の油商、賀島善右衛門邸にあった水楼から長良橋を見渡し、その景色の美しさに感動して詠んだ句も素晴らしい。
「このあたりめにみゆるものは皆涼し」
芭蕉は、『十八楼の記』の中で、中国の代表的景観である「瀟湘(しょうしょう)八景と西湖十景を合わせたほどの風情がこの水楼を渡る涼風にあり」として、この水楼を「十八楼」と名付けたとしているが、そんな風景は今では想像の中でしか味わえないのだろうか。
ところで長良川鵜飼というとあの喜劇王チャップリンが2度訪れたことでも知られている。しかし、彼にとっての鵜飼いの印象は、初回(1936年[昭和11年]5月)と2回目(1961年[昭和36年]7月)とではずいぶん異なっていたようだ。『週刊朝日』1961年8月4日号「古き日本をたずぬれど… 天プラ・カブキ・ウ飼い 喜劇王チャプリンの八日間」(記事:工藤宜)のなかでチャップリンの2度目の鵜飼い見物の感想が語られている。
「昔のウ飼いは、そのまま一編の詩だったんだよ」
チャプリンは、帰らぬ昔の夢を思い出すかのように、うっとりとした表情で回顧した。
「六そうのウ船が川上のほうから、つぎつぎに下ってきたのだ。明るい幻想的なかがり火で、ひとつ、ふたつ……とウ船を数えられた。ウはアユをとり、われわれはそのアユを屋形船の上でアユずしにしたり、塩焼きにして食べたものだった。詩がそこにあった。しかし、今のウ飼いはなんだろう。チープ・スタント(安っぽい曲芸)に過ぎない。芸術家だったウ匠は、いまは芸人だ。ウ船がないがしろにされて、見物の船は無政府状態に移動する。川のなかに交通整理の警官が必要なくらいだ。……。それに今夜の私は、まるでさらしもの(パブリシティー)だった」
チャプリンは、なんべんもなんべんも昔を語り、夢みる目で手をふった。怒りの感情さえ示した。
さすがチャップリン。戦前の日本にはまだ残っていた江戸の風情、文化が、戦後、特に1955年に始まる高度経済成長の中で失なわれていくのを鵜飼の中に敏感に感じ取っていたのだろう。魂を忘れた形だけの伝統の復活、維持などでは、文化の担い手も受け手も育たない。文化が衰弱すれば、人も国も衰弱する。政治、外交も大きな問題を抱えているが、それ以上に生活文化のレベルで今の日本に危機を感じる。
(川瀬巴水「鵜飼 長良川」)
(土屋光逸「長良川 鵜飼」)
(新井芳宗「鵜飼い」)
(渓斎英泉画「岐阻路ノ駅 河渡 長柄川鵜飼船)
(春信「鵜飼」)
(北斎「絵本庭訓往来 鵜飼」)
(鵜飼を楽しむチャップリン)
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