「清流の女王 鮎」①
初夏の使者、清流の女王と呼ばれる鮎。清流に身を躍らせて太陽にその銀鱗を反射させる若アユの姿は実に美しい。アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある。漢字でも、「鮎」以外に、独特の香気をもつことから「香魚」、一年で一生を終えることから「年魚」とも表記される。では「鮎」という字が魚偏に「占」と書くのはなぜか?これも諸説ある。神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を「占った」とする説、アユが一定の縄張りを独占する=「占める」ところからつけられた字であるという説など。
鮎の魅力はもちろんその容姿の美しさだけではない。食べて美味しい。「子持ち鮎」、「落ち鮎」もいいが、鮎の美味しさをダイレクトに楽しむならコケを十分に食べ、「瓜の香り」とも表現される良い香りを持つようになった6月から7月にかけての若鮎。最近では、和食だけでなくイタリアン、フレンチでも、フリット、コンフィ、テリーヌなど様々なスタイルで楽しむことができる。
江戸の鮎と言えば相模川の鮎も有名だったが、何といっても多摩川の鮎。形といい、味といい、他の比ではなく、将軍家にも献上された。ところが鮎は腐りが早いのが難点。そこで鮎を納める器にも一工夫された。鮎を納める籠は舟形をした「鮎籠」。その底に熊笹を敷いて鮎を並べ、その上に熊笹をかぶせ、また鮎を並べる。熊笹には殺菌力があると考えられていたから、こうして傷むのを防ごうとしたのだ。そしてこの薄い鮎籠を前後に二十四枚ずつよくしなる細みの天秤棒に振り分けにしてかつぐ。鮮度の落ちないように、夜明け前には、内藤新宿の鮎問屋「蔦屋」まで運ばなければならなない。およそ10里(約40キロ)の道のりを夜通し走りに走った。体力、脚力が勝負のこの仕事。「鮎かつぎ」といいもちろん駄賃は高かった。金離れはよく、いなせというわけで、新宿をはじめ宿々の女郎にえらくもてたそうだ。もらった駄賃は、その帰りにはすっかり使い果たしてしまい、すってんてんになって帰っていくのを誇ったほどだった。
ところで多摩川での鮎漁。鵜飼も行われ、昭和初年まで続けられた。府中市の四谷、是政から鵜匠を頼んできて、大丸、東長沼、押立、矢野口の多摩川で行われたという。ただし、鵜飼いと言っても「長良川の鵜飼い」とはずいぶん趣が異なる。行われるのは昼間。二人の「勢子」(せこ。網を引く人)が「鵜先網」(うさきあみ)を引いて魚を寄せ、網の中央で別の1人の鵜匠が2匹の鵜を遣って集まった魚を捕る。1日に2羽の鵜が捕る魚は、500匹余であったという。夜、篝火のもとで行われる長良川の鵜飼ほど魅力は感じられないが、歴代の将軍や明治天皇、皇族の人々も、たびたび多摩川をおとずれ、鮎の鵜飼いを楽しんだようだ。「江戸前アユ」(東京湾で育ち、生まれ故郷の多摩川に遡上する鮎)の遡上数も増え、デパートでも販売されているようだが、多摩川で鵜飼い見物ができる日は来るのだろうか。
( 大野麦風「鮎」)
(広重「魚尽くし 鮎」)
(国周「源氏君鵜飼御遊之図」)
(国周「源氏君鵜飼御遊之図」)鵜飼い
素人がこんな風に鵜を使って鮎をとれたんだろうか。よほど鮎が多かったんだろう。
(豊原周延「多摩川での鮎とり」)
(広重「名所雪月花 多摩川秋の月あゆ猟の図」)
(『江戸名所図会』「代太橋」)「鮎かつぎ」が描かれている
(中島仰山「多摩川鵜飼図」)多摩川の鵜飼い
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