「世界遺産の街マントヴァの魅力」③
イザベラ・デステがマントヴァをルネサンス文化や芸術の中心都市に変貌させるにあたって、一つのショッキングな出来事がきっかけとなった。イザベラは16歳の時マントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガ侯爵と結婚したが、翌年妹のベアトリーチェがミラノ公国のルドヴィコ・スフォルツァと結婚することになった。妹に付き添ってミラノに赴いたイザベラを待っていたのは、自らの結婚とは桁違いに華やかで豪華なセレモニー。服装、装飾、人数その他圧倒的な財力と洗練さに裏打ちされた式典。それもそのはず。その式典を企画、演出したのは、レオナルド・ダヴィンチとブラマンテだったのだから。ベアトリーチェはそれまで、何事にもイザベラに後れを取っていたが、突如この結婚によって二人の立場は逆転。ショックを受けたイザベラは一念発起。芸術と文化のレベル向上によってマントヴァと自らを世界に冠たる地位に高めようとする。
イザベッラ・デステから6代にわたって精力的に行われた美術品の収集は、1627年に編纂された総目録によれば、絵画作品だけでも1800点にのぼった。1328年から約400年間続いた、マントヴァの支配者ゴンザーガ家のかつての居城ドゥカーレ宮殿。その宮殿は広大で、広場3つ、中庭と公園が15、部屋数は約500。しかし、現在そこを訪れても壁画以外これと言った名画にお目にかかることはない。期待は完全に裏切られることになる。あるのはいくつかの壁画だけであって、1800点の絵画はひとかけらもない。それはなぜか?
17世紀に当主となったヴィチェンツォ2世は財政困窮の末にコレクションの一部を売却。また、1707年にマントヴァを支配したオーストリアはゴンザーガ家の膨大なコレクションをウイーンの美術史美術館に持ち去ってしまった。さらに、1797年に新たな支配者となったナポレオンのフランスも美術品はパリに持ち去り、マントヴァに残ったのは剥がせなかった壁画のみになってしまった。
では、ゴンザーガ家の絵画コレクションにはどのような作品が含まれていたのか。ごく一部を現在の収蔵場所とともにあげる。
①マンテーニャ ・「死せるキリスト」(ミラーノ、ブレラ美術館)
・「パルナッソス」(パリ、ルーヴル美術館)
②コレッジョ ・「キューピッドの教育」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー) ・「眠れるヴィーナスとキューピッド、サテュロス」(パリ、ルーヴル美術館)
③ルーベンス 「三歳のエレオノーラ・ゴンザーガ」(ウィーン、美術史博物館)
④ティントレット 「悔悟するマッダレーナ」(ローマ、カピトリーノ美術館)
⑤ジューリオ・ロマーノ「バッコスの誕生」(ロサンゼルス、ポール・ゲッティ美術館)
⑥ブリューゲル 「農民の婚礼」(ダブリン、アイルランド国立美術館)
⑦カラヴァッジョ 「聖母の死」
2002年の秋、「テ宮殿」と「ドゥカーレ宮殿」を会場として、『ゴンザーガ・妙なる回廊』という展覧会が開かれたそうだ。5年の準備をかけて実現したこの催しは、三百六十年前に散佚(さんいつ)したゴンザーガ・コレクションを一堂に集めて「幻の美術館」を再現しようとしたものだった。絵画、美術工芸、小彫刻、武具、音楽の五部門に分かれていて、借り出した現在の所蔵先の数は、外国が48の機関、イタリア国内でも39という膨大なものであった。1627年の目録に明示されているそれらの作品の本来の設置場所に展示するというわけにはいかなかったようだが、素晴らしい企画だ。宗教画に限らず、絵画はもともと置かれていた場所でなければ十全にその魅力は味わえないと思うから。
(ティツィアーノ「鏡の前の女」ルーヴル美術館)部分
(マンテーニャ「死せるキリスト」ブレラ美術館)
(マンテーニャ「パルナッソス」ルーヴル美術館)
(コレッジョ「キューピッドの教育」ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
(コレッジョ「眠れるヴィーナスとキューピッド、サテュロス」ルーヴル美術館)
(ルーベンス「3歳のエレオノーラ・ゴンザーガ」ウィーン美術史美術館)
(ティントレット「改悛のマグダラのマリア」ローマ カピトリーノ美術館)
(ジュリオ・ロマーノ「バッカスの誕生」ロサンゼルス、ポール・ゲッティ美術館)
(ピーター・ブリューゲル(子)「農民の婚礼」アイルランド国立美術館)
(カラヴァッジョ「聖母マリアの死」ルーヴル美術館)
依頼主から受け取りを拒否されたこの絵を高く評価してゴンザーガ家に買い取らせたルーベンスもさすが。
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