「高杉晋作の上海体験」

  晋作にとって吉田松陰との出会いは決定的だった。生き方の根本、死生観を教えられた。安政六年(1859)七月、晋作が江戸伝馬町の獄中にあった松陰のもとへ「男子たる者の死」について教えを乞う手紙を差し向けた時、獄中の松陰は次のように返事した。

  「世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。

   心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

   死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。

   生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。      」

 しかし、自らの「大業」、死んでも悔いない生き方が何かを晋作が見つけ出す上で決定的だったのは上海渡航体験だと思う。渡航目的は、幕吏に随い上海に渡り、かの地の形勢および事情、制度・器械に至るまで心を用いてなるべく視察すること。文久2年(1862)5月6日に到着し、7月5日に出港する までの2カ月間、晋作は精力的に上海の街を見聞する。

   5月17日 イギリス人所有の川蒸気船を見学

   5月20日 アメリカ商人チャールズ宅を訪れる

   5月23日 イギリス人宣教師ミュアヘッドを訪ねる

   5月26日 幕吏に従ってオランダ商船の検分に出かける

   6月14日 清国兵の練兵や装備などを見学

   6月17日 イギリス砲台でアームストロング砲を見学

 5月21日の日記に上海の形勢についての所感をこう記す。

「 つらつら上海の形勢を見るに、支那人はことごとく外国人に使役され、英仏人が街を歩けば清人みな道をよける。実に上海は清国の地でありながら英仏の属国と言ってよい。日本人もこころすべきである。支那だけのことではない」」

 そして、長崎に帰港した7月14日、上海視察の結論をこう記す。

「 わが神州も早急に攘夷の策をめぐらさなければ、ついに支那の覆轍を踏むことになりかねない」

 晋作は、上海渡航体験を通して、清国の形勢や事情、列強の動向を把握するとともに、国家主義的な危機意識に覚醒し、富国強兵と攘夷の決行こそが焦眉の課題と考えるようになった。この後、長州自体は藩論が目まぐるしく変わるが、そのなかでも晋作は全くぶれることなく攘夷、開国、倒幕の道を突き進んでいく。

 ところで、晋作の上海体験について、古川薫が『高杉晋作―戦闘者の愛と死―』のなかで実に的確かつ要領よく次のように書いている。

「千歳丸には、五十人ばかりの日本人が乗っていた。みんなそれぞれ考えるところはあっただろうが、おそらく晋作ほどに烈しい衝撃を覚えたものは他にいなかった。それまでの彼が動かないままに悩み、積み上げてきた思念、何よりもその鋭い感受性、そして後の彼が見せる直観力と行動力、それこそが松陰の見抜いた資質だったに違いないが、この上海渡航によって晋作は、変わった。ここで父親や家の束縛をついに振りきったというような次元のことではない。彼のなかで、激変がおこったのである。つまり上海渡航以前と渡航後の晋作は、ほとんど別人のごとく変わった。そんなに人間が、一時に変わるものだろうかといわれれば、もしかしたら変わったのでなく、休火山が活躍をはじめたように、激しい噴煙を開始したのだとしてもよい。」

 帰国から病死までわずか5年。後に伊藤博文が「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。」と顕彰碑文に揮毫した生き方を晋作は邁進していった。

(現在の上海)

(「高杉晋作立志像」) 「高杉晋作誕生地」の近くにある「晋作広場」に、平成22年10月に建立

  20歳頃の、髷を切る前の晋作の姿は、あまり見慣れないイメージ

(「高杉東行先生像」)東行庵 下関

(「高杉晋作像」)東行庵2体目の像  

  プレートの「安倍晋三」の文字が違和感ありあり。山口(長州)出身以外一体どこに共通点が

 あるというのか。

(「五代友厚」) 

 薩摩藩から上海渡航の許しを得た時、すでに枠が埋まっていたため、友厚(当時は才助)は水夫になりすまして乗り込んでいた。薩摩藩出身だが、高杉とはよく語り合った。薩長同盟が結ばれる4年前のこと。日本全体に目が移りつつあった高杉にとって、狭い藩意識は薄れ始めていく。

(「五代友厚像」)大阪商工会議所

上海渡航の翌年の「薩英戦争」ではイギリス軍に捕縛されるなど波乱万丈の人生を送るが、後に「東の渋沢、西の五代」とも称される実業家として大阪で大活躍。


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