「『コロンブス交換』とジョン・F・ケネディ大統領」

  「コロンブス交換」(Columbian Exchange)。1492年のクリストファー・コロンブスの新世界の「発見」にちなんだ表現で、1492年ののち発生した東半球と西半球の間の植物、動物、食物、奴隷を含む人びとなど甚大で広範囲にわたる交換を表現する時に用いられる言葉だ。提唱したのはアメリカの歴史学者アルフレッド・クロスビー。

「著しく異なるふたつの世界はその日を境にそっくりになった。生物学上の均質化が進んだことは、大陸氷河の後退以来、地球の生命史において重要な現象のひとつに数えられる」

 「コロンブス交換」でアメリカ大陸からヨーロッパに運び込まれたジャガイモは、ヨーロッパの食文化に多大なる影響を与えたが、その実態をアイルランドを例に見てみる。アイルランドは1801年、イギリスに併合された。工業も鉱物資源もないアイルランドは、イギリス人の食料を供給する農業植民地となり、よい農地はイギリス輸出用の牛肉やバターを生産するための牧牛用の牧草地や穀物畑として使われ、農民自身には痩せた土地しか残されなかった。農民の生活は貧困を極めた。そんなアイルランドの農民にとって、痩せた土地でも育つためジャガイモは重要な食料(「貧者のパン」)となり、アイルランドの人口は急増(1760年の150万人から1841年には約800万人)。しかし、1845年「ジャガイモ疫病」が発生。過度にジャガイモに依存していたアイルランドは「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」と呼ばれる「ジャガイモ飢饉」(The Great Famine)にみまわれるす。100万人以上が餓死し、100万人以上が生き延びるためにてアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに移民として移住していった。この時(1849年)家族とともにアメリカ合衆国ボストンに移民として渡ったパトリック・ケネディ(1823年 - 1858年)の曾孫として生まれたのが後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディである。

 この時のイギリス政府はどう対応したのか?驚くことに、飢饉期間中(1845-52年)もアイルランドからイギリスへの畜産物や穀物の輸出はむしろ増えていた。飢饉の原因はじゃがいも疫病であり、天候不順でによるものではなかったため、じゃがいも以外の作物は普通にとれていたのだ。なぜ、輸出を減らしてアイルラン人に回さなかったのか。アイルランドの民衆はイギリス支配に対する反抗を続けていたこともあって、「貧民たちに天罰が下った」という主旨の発言をする政治家までいた。ジャガイモ飢饉は「不作為によるジェノサイドだった」と唱える学者もあるくらいだ。ちなみに、1997年、当時のイギリス首相トニー・ブレアは、アイルランドで開催されていた追悼集会において、1万5千人の群衆を前に飢饉当時のイギリス政府の責任を認め、謝罪の手紙を読み上げている。

 この時、飢饉に苦しむアイルランド人に最も手厚い援助を差し出したのは誰だったか?オスマン帝国のアブデュルメジト1世(在位:1839年 - 1861年)。である。ヴィクトリア女王からの援助2千ポンドに対して1万ポンド の援助を申し出た。これに対してイギリス政府は、驚くべき提案をアブデュルメジト1世に行う。支援を女王の半分の 千ポンドに減額するように、と。アブデュルメジト1世は、どうしたか。一旦 この提案を受け入れ、お金での援助は 千ポンドに抑えた。しかし、それとは別に、食糧を満載した5隻の船をアイルランドに向かわせている。それは秘密裡に実行された。イギリス政府による妨害を避けるためである。この事実から我々は何を学ぶべきだろうか。

(「飢饉追悼碑 」ダブリン アイルランド)

(「切り株畑でのじゃがいも探し」1849年12月22日 イラストレイティッド・ロンドン・ニュース)

(1868年  移民として旅立つ者を見送る人々)

(ジョン・F・ケネディ大統領)

 アメリカ歴代大統領で唯一カトリック教徒のアイルランド系アメリカ人

(1854年 ヴィクトリア女王夫妻)

(アブデュルメジト1世)

 

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