「『コロンブス交換』とゴッホ」

  アンデスの4000メートル級の高地で生まれたジャガイモがスペインに伝わったのは1570年頃らしい。そこからヨーロッパ各国に伝わり、日本にはオランダの植民地だったジャワ島のジャカトラ(ジャカルタの古名)からオランダ人によって16世紀末に運ばれた。ジャカトラから来たことから「ジャガタライモ」となり、これが後につまって「ジャガイモ」となった。

 このジャガイモの強みは寒冷地でも栽培可能ということ。北ヨーロッパの寒冷地などものともせず、豊かな収穫をもたらした。でんぷん質、無機質(リン、カリウム)、さらにビタミンCが非常に多いとあって、寒い地方では「冬の野菜」としての重大な役割を担った。ジャガイモが栄養たっぷりな作物であることはフランス語の呼び名「ポム・ド・テール pomme de terre」=「大地のリンゴ」にも表れている。オランダ語でも同様に「アールド・アッペル aardappel」=「大地のリンゴ」と表わされる。

 しかし、このようなジャガイモが食用として一般人の食卓に上がるようになるまでには長い年月がかかった。ヨーロッパにもたらされた当初、ジャガイモが注目されたのは実ではなくその白い花の方だった。貴族の温室での観賞用の植物として貴重がられ、非常に高価だった。それが食用になるまで長い時間を必要としたのはなぜか?それは、キリスト教徒にとってジャガイモは悪魔が創った食べ物のように思えたことにあった。第一に聖書にはジャガイモの記述はない。また、ジャガイモは種をまかずに塊茎を切って植えるだけで成長する、しかも地中で。このことがジャガイモを奇妙な、口にすることが憚られる食べ物と映った。この迷信、偏見は根強かった。しかし、それを打ち破ったのは飢え。ジャガイモがヨーロッパ各地に広がろうとする17~18世紀、ヨーロッパは戦争に次ぐ戦争の時代。特に17世紀は、ヨーロッパで戦争がなかったのはわずか4年。加えて、この時期は小氷河期と呼ばれる寒い時代で、飢饉が頻発。三十年戦争(1618年~1648年)後のドイツの状況について『食物の社会史』(加茂儀一)に次の記述がある。

「耕地の全滅のために農民の疲弊ははなはだしく、彼らは戦後数年の間まったく食わずにいた。そしてときには野山の草や木の皮を食って命をつなぎ、大切な家畜をほふり、愛犬を殺して露命をつないだ。そうしたどん底の生活が彼らにジャガイモを栽培することを余儀なくさせたのである。かくして戦後の貧困が彼らにジャガイモに関する迷信を克服させ、やがて彼らの間にジャガイモの栽培が普及された」。

 このように打ち続く戦争、凶作、飢饉を背景にジャガイモは食生活に取り入れられていったため、かつてのジャガイモには飢え、貧しさのイメージが伴う。そしてそのイメージを伝えてくれるのが、パリにでてくる1年前にゴッホが描いた『ジャガイモを食べる人々』(ファン・ゴッホ美術館 アムステルダム)。この絵についてゴッホは、弟テオへの手紙で次のように説明している。

「ぼくは、ランプの光の下でジャガイモを食べている人たちが、今皿に伸ばしているその手で土を掘ったのだということを強調しようと努めた。だからこの絵は〈手の労働〉を語っているのであり、いかに彼らが正直に自分たちの糧を稼いだかを語っている」

 ゴッホは、貧しさを伝えたかったのではない。伝えたかったのは、働く人々の誠実さだろう。それだけに、当時ジャガイモが農民の食生活の中でどのような存在だったかがよく伝わってくる。ミレーの『晩鐘』(オルセー美術館)とともにジャガイモが描かれた忘れられない名作である。

(1885ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」ファン・ゴッホ美術館)

(1884ゴッホ「ジャガイモを植える農夫たち」クレラー・ミュラー美術館)

(1885ゴッホ「ジャガイモを掘り出す女性」ファン・ゴッホ美術館)

(1885ゴッホ「ジャガイモのかご」ファン・ゴッホ美術館)

(1885ゴッホ「ジャガイモの皮をむく農婦」メトロポリタン美術館)

(1857年頃 ミレー「晩鐘」オルセー美術館)

(1887ゴッホ「黄色い皿に入ったジャガイモ」クレラー・ミュラー美術館)

パリに出てからの作品。同じ画家が描いたとは思えない。


0コメント

  • 1000 / 1000