「大西洋横断航海計画へのゴーサイン」
コロンブスが幼い息子を連れて向かったのはスペインのパロス。亡くなった妻の妹夫婦が、パロス近くのウェルバに住んでいたからだ。パロスで立ち寄ったラ・ラビダ修道院がコロンブスの航海計画を大きく前進させることになる。学識豊かで、航海学にも精通した天文学者として宮廷でも知られていたマルチェーナ神父との出会い。航海計画について率直に話し合い、ポルトガルでの挫折以後何よりもコロンブスが求めていた計画への賞賛と励ましをマルチェーナ神父から得ることができた。それだけではない。息子の養育も依頼できた。特に重要なのは、後援者、王室との道筋をつけられるようになったこと。そしてスペインに来て1年も経たないうちに、コロンブスは宮廷に召されることになった。場所はコルドバの要塞宮殿アルカサル。コロンブスはスペイン両王(フェルナンド王とイサベル女王)に初めて大西洋横断航海計画を説明した。コロンブスの航海案を検討する「タラベラ委員会」が招集。結論は「きわめて薄弱なる根拠に基づく計画」「実現不可能と思われる計画」というものだった。確かに時期が悪かった。1480年代末のこの時期は、スペイン王室にとっての最大の懸案はスペインから異教徒を追い出すこと。
コロンブスは、別の相手への売り込みを行う。もう一度ポルトガル王ジョアン2世に手紙を出す。王もポルトガルに戻るように伝える。しかし、結局うまくいかない。なぜか。1488年12月、バルトロメウ・ディアスが帰航して、喜望峰発見のセンセーショナルなニュースを伝えたからだ。大西洋とインド洋が海でつながっていることがわかり、今やポルトガルは船で直接インドに到達する道を確保した。成功の当てのない大西洋西廻り航海などに、ポルトガル王が大金を注ぎ込む気がなくなったのは当然だ。コロンブスは弟バルトロメをイギリスのヘンリー7世、フランスのシャルル8世にも謁見させた。しかしいずれも失敗。失意に打ちひしがれたコロンブスはスペインを去る決意をする。しかしラ・ラビダ修道院長のペレス神父に励まされ思いとどまる。神父のイサベラ女王宛ての手紙で再びコロンブスに航海計画について説明の機会が与えられた。そして審議が続いている間に、王室最大の懸案事項だったイスラム教徒との戦争が終結した。1492年1月2日、レコンキスタにおけるイスラム教徒の最後の砦グラナダが陥落したのだ。今や両王はコロンブスの請願を考慮することができるようになった。ついにコロンブスの長年の努力も報われるかと思われた。しかし、委員会はコロンブスの計画案を拒絶。コロンブスの計画の価値が否定されたわけではない。彼が要求した報酬があまりにも課題だったため、両王が拒絶したのだ。確かに彼の要求は不遜ともいえるものだった。「大洋提督の称号」、「彼がスペインのものと領有宣言する一切の新発見の土地の副王兼総督への任命とその称号を世襲とすること」、「征服ないし交易によってその土地から得られる収入の10分の1」などだ。もはやこれまでと思ったコロンブスは、フランスに向けてグラナダを出発する。15キロほど進んだピノス・プエンテ村まで来た時である。急使が追いついてきて、問題を再考するから引き返せ、という女王の命令を伝えた。
何がこの逆転劇を生んだのか。改宗ユダヤ人でアラゴン王国の経理官ルイス・サンタンヘルとジェノヴァ商人フランチェスコ・ピネロの二人の人物だ。二人が相談してコロンブス案の実現に必要な資金の大部分を調達できることになったので、イサベラ女王に決定の変更を促したのである。コロンブスの次男フェルナンドはサンタンヘルの言葉をこう記述している。 「こうした事業でありますれば、もし他国の君主がコロンブスの提案を実行したなら、(女王陛下の)御威光をおおいに損なうのみならず、陛下の御友人から叱責を受け、敵方の非難を招く原因となるでありましょう」 コロンブスの長い嘆願に奔走した時期は、こうして終わりを告げたのである。
(巨大なコロンブス像 ウェルバ リオ・ティント河畔)
(巨大なコロンブス像 ウェルバ リオ・ティント河畔)
(ラ・ラビダ修道院に立ち寄ったコロンブスと息子ディエゴ)
(ドラクロワ「ラ・ラビダ修道院のコロンブスと息子」ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
(アルカサル宮でカトリック両王に謁見するコロンブス)
(アルカサル宮 コルドバ)
(アルカサル宮 庭園 コルドバ)
(ピノス・プエンテ村でコロンブスに追いついた女王の急使)
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