「コロンブスとリスボン」
1451年織物業を営む家に生まれたコロンボが船乗りになったのは、息子フェルナンドによれば14歳 の時。若い頃おこなっていたのは、父の家業を助けて品物を運ぶイタリア半島近海での沿岸貿易航海だった。1476年、彼の人生は突然大きく転換する。コロンブスは、ジェノヴァを出港しフランドルに向かうブルゴーニュ籍の商船に乗っていた。その船がサン・ビセンテ岬(ポルトガルの南西の果て)沖でポルトガルとフランスの連合艦隊に襲撃され沈没。なんとか海岸にたどり着いたコロンブスは、ポルトガルの首都リスボンへ向かう。
その頃のリスボンは探検航海で偉業を成し遂げようとする活気に満ち溢れていた。歴史上「大航海時代」と呼ばれる時代は1415年のセウタ(ジブラルタル海峡のアフリカ側)攻略に始まるが、ポルトガルはその後アフリカ西部沿岸を根気強く南進していった。そしてコロンブスがリスボンに到着した時には、すでに赤道を越えていた(その後1488年に喜望峰、1498年にインドのカリカットに到達)。コロンブスは世界の探検航海活動の中心地に居を定めたのだ。ここにはジェノヴァ人地区があり、弟のバルトロメもそこに住んで海図の制作と販売を行っていた。コロンブスは一緒に仕事をすることになるが、これはきわめて重要な意味を持つ。地図や海図の制作、販売は、第一線の航海者たちの発見を、船乗りたちのために実用的情報に翻訳する活動で、コロンブスはこの仕事に従事することによって、最新の地理的情報を収集し、多くの国々から来た船乗りたちと交わることができた。
1479年コロンブスはマデイラの貴族の娘フェリパと結婚し、妻の兄が総督をつとめるマデイラ諸島のポルト・サント島に移り住む。風向き、潮流、多くの港に関する船乗りたちの話を聞き、自身で大西洋の風の流れ、潮の流れの観測を行った。西方からの漂流物(見たことのない材質の松や巨大な竹)も目にする。コロンブスの想像は膨らむ。それらは、インドから流れてきたものではないか。船乗りとしての経験も積んだ。1477年以降、5年足らずの間に、大西洋の北と南を含め、当時として航海可能な海域を全て航海した(1477年アイスランド、1482年ミナ要塞)。コロンブスは、アメリカ航海をする前に、すでに熟練した大西洋の航海者になると同時に、地図製作の技術や天文地理学の知識も十分に身につけていた。ポルトガルがその野望に燃えた1世紀間に学んだすべてを吸収していたのだ。そして1483年頃、つまりポルトガルにきてから8年目にポルトガル王ジョアン2世に西回り航海の計画を申し出る。王は諮問委員会を招集し検討するが、実現不可能として却下。この頃、妻フェリパも幼い息子ディエゴを残して他界。失意のコロンブスはポルトガルを離れ、スペインに向かう。
レオナルド・ダ・ヴィンチもこの前年フィレンツェを離れミラノに向かった。原因は諸説あるが、フィレンツェを代表する画家たちが教皇から仕事を依頼され、ボッティチェリやペルジーノがヴァチカンに招かれたがレオナルドはそのメンバーに選ばれなかったことも関係しているようである。この事で悲観的になったレオナルドが、観念的な新プラトン主義が流行していたフィレンツェよりも、より実用的なものの考え方をするロンバルディア地方の方が、自分に合っているのではないか、と考えたというのは大いにありうることだ。時代の先端を行く人間が時代から受け入れられるのは容易ではない。
(クリストフォロ・デ・グラッシ「1481年のジェノヴァ」1597年コピー)
(「コロンブス像」 ジェノヴァ アクア・ヴェルデ広場)
(サン・ヴィセンテ岬)
(テオドール・ド・ブリ「16世紀のリスボン」)
(「コロンブス像」ポルト・サント島 サンタ・カタリーナ公園 )
(ポルトガル王ジョアン2世)
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