「1492年」②同時代人コロンブスとダ・ヴィンチ

 スペインではカトリック色が強化され、新世界に向けて本格的に乗り出そうとしていた1492年、イタリアはどんな状況だったか?イタリア・ルネサンスはフィレンツェで始まったが、ロレンツォ・ディ・メディチ(フィレンツェ・ルネサンスの庇護者メディチ家の最盛期の当主)がこの年の4月8日に亡くなった。ボッティチェリの「ヴィーナス誕生」は7年前の1485年頃にすでに描かれている。また、ロレンツォがその彫刻の才能を見出し自宅に住まわせて面倒をみていたケランジェロは、ロレンツォ死後メディチ家を出る。そして1498年にはローマで、ヴァザーリが「間違いなく奇跡といえる彫刻で、単なる大理石の塊から切り出されたとは到底思えない、あたかも実物を目の前にしているかのような完璧な作品」だとした「ピエタ」を完成させている。コロンブスに1年遅れて誕生した(コロンブス1451年誕生説に従うと)レオナルド・ダ・ヴィンチにとっても1492年は大きな意味を持つ年。レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動したが、この年に「ウィトルウィウス的人間」のデッサンを描いている。しかし、それ以上に重要なのはレオナルドが仕えていたミラノの事実上の君主イル・モーロ(ルドヴィーコ・スフォルツァ)がサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を宮廷教会、スフォルツァ家墓所にしようと改築に取り掛かったことだ。内陣はブラマンテ、食堂壁画はレオナルドに依頼される。そしてレオナルドは、1495年から「最後の晩餐」の制作に取りかかり、1498年に完成した。

 フランスは、あのジャンヌダルクが戴冠させたシャルル7世が百年戦争を終結させた後、ルイ11世が父王の事業を継ぎ,百年戦争後のフランスを統一。経済復興をはかり,フランス絶対王権の基礎を固めた。そして息子シャルル8世は、1491年ブルターニュ公女と結婚して同公領を王国に併合し王領を拡大した。そして1494年にはナポリ王国の王位継承権を主張し大軍(フランス兵1万7000名とスイス傭兵8000名からなる総勢2万5000名)を率いてイタリアに侵入し、イタリア戦争が勃発。フランスは、シャルル7世、ルイ11世の2代の国王の間に中央集権体制を固めつつあったが、産業の発達は遅れていたため、北イタリアの進んだ経済力を支配下におくことをねらっていたようだ。ちなみにこの時、ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチは抗戦せず独断でフランス軍の入城を許可したためメディチ家はフィレンツェから追放された。イタリアは激動の時代を迎える。これが盛期ルネサンスの時代状況だった。

(ベノッツォ・ゴッツォリ「三賢者」メディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂)部分

若き日のロレンツォがモデル

(ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」ウフィツィ美術館)

(ヴァザーリ「ロレンツォ・ディ・メディチ」ウフィツィ美術館)

(「ルドヴィーコ・スフォルツァ」ブレラ美術館)

(レオナルド・ダ・ヴィンチ「ウィトルウィウス的人体図」アカデミア美術館 ヴェネツィア)

(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 ミラノ)

(レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 ミラノ)

(ジャン・ペレアル「シャルル8世」コンデ美術館)

(フランチェスコ・グラナッチ「フィレンツェに入るシャルル8世軍」)

 

0コメント

  • 1000 / 1000