「1492年」①

 1492年というと真っ先に浮かぶ出来事はコロンブスの「新大陸発見」。正確には、この年の10月12日にバハマ諸島のサンサルバドル島に到達。この航海はスペインの援助で実現したが、長年のコロンブスからの申し出にもかかわらず拒み続けてきたスペインがなぜこの年になって資金援助に乗り出したのか?それは、この年の1月2日にイベリア半島にあったイスラムの拠点グラナダを陥落させたためだ。長年の最大の懸案事項が解決したのだ。イスラム勢力は北アフリカに後退し、レコンキスタ(国土回復運動)が完成した。711年に始まるイベリア半島のイスラム支配は、780年後のこの年に終わったのである。1469年のカスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚とこのレコンキスタの完了によってスペインに待望の統一王権が誕生したのである。

 そしてカトリックによる国民の統一を推進するため、表面上はキリスト教に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていた「モリスコ」(キリスト教に改宗したイスラム教徒)や「コンベルソ」(キリスト教に改宗したユダヤ人)を異端審問にかけ排斥しようとする。1492年3月31日には、4ヶ月の猶予期間をもってユダヤ教徒にキリスト教への改宗か、国外退去を迫る「ユダヤ人追放令」(キリスト教への改宗者は優遇されている、正確には「ユダヤ教徒追放令」)が発せられた。ところでコンベルソとコロンブスのかかわりも深い。コロンブスの航海に出費した、アラゴン王国財務長官ルイス・デ・サンタンヘル、アラゴンの財政有力者アルフォンソ・デ・カバリェーリャやガブリエル・サンチェスは、いずれもコンベルソだった。コロンブスもコンベルソだったという説があり、彼の航海もスペインで迫害されているユダヤ教徒のために新天地を探すためだったとも言われているくらいだ。

 ところで悪名高い「スペイン異端審問所」だが、これはカトリック教会が設置していた伝統的な異端審問所とは異なる組織である。伝統的な異端審問所が、教皇の管轄下にあったのに対し、フェルナンド2世が、コンベルソに起因する民衆暴動を抑え、多民族であるスペインのカトリック的統一を目的にローマ教皇に特別な許可を願って設置された。当然教皇は認めたがらなかったが、ある枢機卿の活躍で実現する。スペイン人枢機卿ロドリゴ・ボルハ、後のローマ教皇アレクサンドデル6世だ。史上最悪の教皇と言われる彼が教皇に就任したのも1492年である。1494年、トルデシリャス条約によって世界はスペイン領とポルトガル領に二分(非キリスト教国を支配する権利)されたが、この条約を承認したのもアレクサンデル6世である。

 以上まとめると1492年は、スペイン関係だけでもこれだけのことがあり、スペインの世紀と言われる16世紀を準備する画期的な年となった。

  1月 2日    グラナダが陥落しレコンキスタ完了

  3月31日   ユダヤ教徒追放令

  8月11日   スペイン人枢機卿ロドリゴ・ボルハ、教皇アレクサンデル6世に就任

10月12日  コロンブス、西回り航路でサンサルバドル島に到達

(プエブラ「コロンブスのサン・サルバドール島上陸」プラド美術館)

(ギルランダイオ「コロンブス」ジェノヴァ海軍博物館)

(「コロンブス」マドリード海洋博物館)

(フランシスコ・プラディーリャ・オルティス「グラナダ陥落」スペイン上院)

(アルカサル宮でカトリック両王に謁見するコロンブス)

(ペドロ・ベルゲーテ「スペイン異端審問」プラド美術館)

(クリストファーノ・デッラルティッシモ「アレクサンデル6世」ウフィツ美術館)

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