「ヴィーナスの恋人アドニス」
クピド(エロス)は、自分の矢で自分を傷つけプシュケの恋の虜になったが、ヴィーナスを矢で傷つけてしまったことがある。ある時、ヴィーナスがクピドからキスされた時のこと。クピドが背負っていた矢筒から矢が一本飛び出て、ヴィーナスの胸をかすり、わずかだが傷つけてしまった。その時彼女が見かけたのがアドニス(おそらくまだ赤ん坊。絵画では若者として描かれることが多いが)。クピドの矢の力には、ヴィーナスと言えども抗えない。たちまちアドニスに夢中になる。恐るべきクピドの矢の効力!
アドニスと言えば、ヴィーナスの怒りにふれ、父親を愛するようにさせられてしまったスミュルナ(ミュラ)が父親と交わってできた子。スミュルナは事情を知った父親から殺されそうになり、神々に願って没薬の木に変身。木の中で成長し、その幹から生まれた。この赤ん坊、一目見ると、誰もがその美しさに夢中にならずにはいられないほど美しい。ヴィーナスはこのアドニスの恋の虜になる。アドニスを自分だけのものにしたい。そこでヴィーナスは、彼を誰の目にも触れられない場所に隠すことにする。どこか。死者の国、冥界である。アドニスを箱に入れ、冥界の女王ペルセポネに預けた、もちろん箱の中は絶対に開けないように命じて。しかし、見るなと言われると見たくなるのは人間も神も変わりない。ペルセポネも約束を破って箱を開けてしまう。彼女もアドニスの美しさに夢中になる。やがて成長したアドニスをヴィーナスが引き取りに来るが、ペルセポネはアドニスを手放さない。二人の女神の争い。結局、ゼウスによって決着が図られた。
「アドニスは、1年の3分の1は冥界でペルセポネと、3分の1は地上でヴィーナスと、残り3分の1は、自分の好きなように暮らしてよい」
アドニスは、自分の自由に任された3分の1の期間も、ヴィーナスと過ごすことを選ぶ。しかしヴィーナスの喜びも長くは続かなかった。若いアドニスは狩りに夢中になる。ヴィーナスの魅力をもってしても引き止めることができない。ある日、ヴィーナスの留守中に狩猟に出たアドニスは、猪に襲われ、牙で急所を突かれ死んでしまう。
なぜアドニスはあっけなく猪に殺されてしまったのか?実は、アドニスを殺した猪は、戦いの神アレスが変身したもの。ヴィーナスの古くからの愛人アレスが、ヴィーナスの心変わりに怒ってアドニスを亡き者にしたのだ。では、アレスはヴィーナスとアドニスの関係をどうやって知ったのか。ペルセポネだ。自分よりヴィーナスを選んだことに腹を立てたペルセポネがチクったのだ。
ところで、ひとつ気になることがある。「アドニスは、自分の出生の秘密を知っていたのだろうか」「なぜ没薬の木から生まれたのか、自分の両親は誰なのか、わかっていたのだろうか」ということ。もし知っていたとすると、母親スミュルナに実の父親を愛するようにさせ苦しませたヴィーナスを許せなかったはず。ヴィーナスの忠告も聞かずに狩りに出て死ねば、自分に夢中になっているヴィーナスを悲しませることで復讐できると考えなかっただろうか。ティツィアーノの「ヴィーナスとアドニス」には、狩りに出るのを必死に止めようとするヴィーナスと、その嘆願を全く意に介さない様子のアドニスが描かれている。しかもクピドは眠りこけ、アドニスのヴィーナスに対する愛の欠如が暗示されている。愛と美の女神ヴィーナスと言えども、あらゆる男性の心を意のままに操れるわけではなかった。
(アンニーバレ・カラッチ「ヴィーナスとアドニス」プラド美術館)
二人の出会いの場面。クピドが指をさしているのは、ヴィーナスの胸の傷。ちょうど胸の谷間にある。これがヴィーナスをアドニスに夢中にさせたのだ。
(ヴェロネーゼ「ヴィーナスとアドニス」プラド美術館)
突然の死により断ち切られる以前の、ヴィーナスとアドニスの甘い関係
(バルトロメウス・スプランヘル「ヴィーナスとアドニス」ウィーン美術史美術館)
こんなヴィーナスも、アドニスに狩りを止めさせられなかったのは不思議だ
(ルーベンス「ヴィーナスとアドニス」メトロポリタン美術館)
クピドも一緒になって(両手だけでなく右足まで使っている)アドニスが狩りに出かけるのを止めようとしている
(ティツィアーノ「ヴィーナスとアドニス」プラド美術館)
ヴィーナスに懇願されても、アドニスの気持ちは揺らがない。クピドは眠ったまま。
(セバスティアーノ・デル・ピオンボ「アドニスの死」ウフィツィ美術館)
(ルーベンス「アドニスの死」イスラエル美術館)
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