「江戸の花火」②
江戸時代、隅田川の川開きを含め大花火の打ち上げがひと夏に2,3回あったようだが、その費用は船宿と両国橋近くの料理茶屋が負担した(船宿が8割、料理茶屋が2割)。大花火のない夜は納涼船の客が金1分(1両=4分だから、1両=10万円として2万5千円)程を出して打ち上げさせていた。花火の打ち上げは、鍵屋とその5代目の頃、番頭がのれん分けしてできた玉屋(両国橋の上流が玉屋、下流は鍵屋が商圏。ただし、玉屋は天保14【1843】年、出火して江戸所払いになったので、両家の競合は30数年しか続かなかった)が担当。
「毎夜とぼして嬉しがる玉と鍵」
「不出来なはみんな鍵屋へおっかぶせ」
掛け声の響きから来るのか、玉屋の方が人気があったようだ。では次の川柳の意味は?
「両国へ弐軒でとぼす狐ッ火」
「狐ッ火」の「狐」は稲荷神社の狛狐。口にくわえているのは、「鍵」と「玉」(お稲荷さんの狐が守護するもの)。だから「狐ッ火」とは鍵屋と玉屋が打ち上げる花火を表わしている。 花火の注文は、それぞれの店の花火船が納涼船の間を回り、「花火はいかが」と言ってとる。客が「よし」と言ってお金を出すと、花火師は打ち上げ台のある船から、「〇〇旦那、一両の花火」と言って打ち上げたのだそうだ。
「両国も江戸の花火や千金の砂子を川にちらす夏の夜」
両国橋近くの料理茶屋で特に賑わったのは柳橋。天保13年(1842)水野越前守忠邦による幕府非公認の岡場所の取り締まりで、それまで隆盛を誇った深川が完全に息の根を止められたため、辰巳芸者の多くは吉原へ舟で向かう客がまず立ち寄る柳橋へと移っていき、柳橋芸者となった。あっさりとして趣があり、媚びる事の無い柳橋芸者は、日本橋界隈の老舗の旦那を中心に強い支持を得ていった。明治期には新興の新橋とともに「柳新二橋(りゅうしんにきょう)」と称され、東京六花街を代表していた。正岡子規の俳句を3つ。
「お白粉の風薫るなり柳橋」
「春の夜や女見返る柳橋」
「贅沢な人の涼みや柳橋」
ところで江戸時代から続く柳橋の料理茶屋で現在も残っているのは、川向こうの角界との関わりも深く横綱審議会の会場にもなっている「亀清楼」のみ。もともと別の場所にあった「亀清」が、後にこの地にあった人気料亭「万八」を買い取って改名したようだ。「万八」は、歌川広重の「江戸高名会亭尽『柳ばし夜景万八』」に書かれている有名な料亭。ここでは、書画会、狂歌会、句会なども開かれたが、特に有名なイベントは文化14年(1817)に行われた「大食い大会」。曲亭馬琴『兎園小説』【文政8年】に、その時の優勝者について次のように書かれている。
酒組。三升入りの盃で「六盃半、芝口鯉屋利兵衛、三十、その座に倒れ、よほどの間休息致
し、目を覚まし、茶碗にて水十七盃飲む。」
菓子組。「饅頭五十八、羊肝七棹、薄皮餅三十、茶十九盃、神田丸屋勘右衛門、五十六。」
蕎麦組。「二八中平盛、上そば。六十三盃、池の端仲町山口屋吉兵衛、三十八。」
初物食いや、大飲、大食の自慢、競争といった食の退廃も、江戸という大都市社会が生んだ食文化の徒花だったようだ。
(国芳「東都名所 両国の涼」)
「屋根船」の客に食べ物を売る「うろうろ舟」と「花火舟」が描かれている。右下は、大山詣でのために垢離をとる人々。
(鍵と玉をくわえた狛狐)
(広重「江戸高名会亭尽 柳ばし夜景 万八」)
万屋八郎兵衛の「万八」(橋の北)と河内屋半次郎の「河半」(橋の南)の二楼は書画会のための貸座敷として特に有名であった
(広重「江戸高名会亭尽 両国柳橋河内屋」)
書画会の様子が描れている。画家の作品に見入る客、芸者、仲居など、会の雰囲気が伝わる。
(広重「江戸高名会亭尽 両国柳ばし 梅川」)
(広重「江戸高名会亭尽 両国柳橋大のし 」)
ここも、書画会貸座敷としてよく利用された。隅田川から二回座敷の書画会の様子を描いた作品
(国貞「江戸名所百人美女のうち 柳はし」)コマ絵に描かれているのは料理茶屋「万八」
(落合芳幾「両国八景之内 「柳橋の晴嵐」)明治2年(1869年)作
(豊原周延「東京自慢 柳橋芸妓粧」) 明治23年(1890年)作
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