「鳥居清長と品川遊郭」

  鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期(1781-89)を中心に活躍したのが鳥居清長。この時期は、狂歌や川柳が流行し、歌舞伎などの芸能も盛んになり、江戸の大衆文化が活況を呈した時期だった。浮世絵の二大テーマは“美人画”と“役者絵”だが、それらは江戸時代、二大悪所と言われていた遊里と芝居町から生まれた。江戸市中で遊里として公認された場所は吉原だけで、それ以外の江戸の遊里は「岡場所」と呼ばれ、日本橋を起点とする五街道の第一駅の宿場を「江戸四宿」とし、それぞれ品川、板橋、千住、内藤新宿が、遊女たちの働く岡場所となった。なかでも品川は、公許の吉原につぐ施設と品格を持ち、明和以後は500名の飯盛女(という名目で置かれた遊女)が認められ、場所柄「北」の吉原に対して「南」と呼ばれて賑わった。

       「飯盛にゃよすぎ傾城には不足」(「傾城」=吉原の花魁)

       「飯盛と号して奥の花やかさ」

 初日の出、潮干狩り、御殿山の桜、海晏寺の紅葉など四季を通じて賑わう江戸屈指の名所であり、それが品川行きの口実をつくってくれた。

       「三階に居る潮干狩り母案じ」(「三階」は品川妓楼の三階)

       「御殿山こころは崖にころげ落ち」(崖下にあったのが品川遊郭)

       「海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ」(海晏の紅葉狩りは品川行きの口実)

 唯一の出入り口である大門口が朝6時に開門し夜10に時には閉門する吉原が、閉ざされた遊里だったのに対し、品川のような宿場町の遊郭は、しきたりが煩わしくなく、料金も安いため人気があった。特に品川は、海に面し開放的で気楽な風情が愛されたが、その魅力を広めるのに清長は大いに貢献した。清長が品川遊里に取材して描いた揃い物には、『美南見八景』、『美南見十景』もあるが、何といっても素晴らしいのは『美南見(みなみ)十二候』。すべては刊行されず、二枚続で出版されたのは3月から8月まで。「三月 飛鳥山の花見」、「四月 品川沖の汐干」、「五月 物詣」、「六月 品川の夏」、「七月 夜の送り」、「八月 月見の宴」。「九月 いざよう月」は1枚のみ。この中でも品川遊郭の開放的な雰囲気を満喫させてくれるのは、四月、六月、八月の三景。江戸っ子たちは、清長の絵を見て期待に胸膨らませ、親や女房たちをさまざまな口実で騙して品川へ夢を買いに出かけて行ったに違いない。いい時代だった。 

(「美南見十二候 四月 品川沖の汐干」)

(「美南見十二候 六月 品川の夏」)

(「美南見十二候 八月 月見の宴」)

(「美南見十二候 三月 飛鳥山の花見」)

(「美南見十二候 五月 物詣」)

(「美南見十二候 七月 夜の送り」)

(「美南見十二候 九月 いざよう月」)

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