「難波屋おきたと歌麿」
歌麿が寛政4,5年ごろに描いた大判錦絵「当時三美人」。「寛政の三美人」を描いている。その三美人とは、両国薬研堀米沢町の煎餅屋高島長兵衛の娘おひさ、浅草観音随身門わきの水茶屋難波屋の娘おきた、そして吉原玉村屋抱えの女芸者で富本節の名取り富本豊雛(豊雛の代わりに菊本おはんを当てる説もある)。絵の中の3人の区別は、外見からは困難。家紋によるしかない。丸に三つ柏の紋に描かれるのがおひさ,桐紋を付けて描かれたのがおきた,富本宗家の桜草の紋を付けているのが豊雛である。寛政の三美人の中でも、最も人気が高かったのが、難波屋おきた。歌麿もこのおきたを格別好んだようで、描いた作品数は15点を越えている。歌麿を虜にしたおきたとは一体どんな娘だったのか?
安永7年(1778)、浅草寺脇の水茶屋、難波屋に生まれる。幼いころから親の接客を見て育つ。 30年ほど前の明和年間に、水茶屋から笠森お仙のようなスターが出てからは、各店が看板代わりに美人を店先に置いて、集客に利用するようになっていた。ちなみに彼女たちは文字通りの看板娘で直接、接客はしない。おきたは、年ごろになると自ら看板娘となって店先に立つようになった。もともとキリっとした美貌の持ち主であったので、当時最先端の流行であった絣の着物を身にまとい、往来の人々に呼び込みの声をかけると、瞬く間に大評判となる。看板娘のおきたをひとめ見ようと集まったお客の対応で店は連日大賑わい。あまりの騒々しさに困り果てた店主が野次馬たちを追っ払うために水を撒いてもなんのその、おかまいなしに用水桶の縁に上がってまで覗こうとする人もいたという。 おきたは、美しいだけでなく愛想が良く、茶代の少ない客に対してもにこやかに対応したので、たいへんな評判になった。ただし、見物だけの客が多すぎて商売にさわるときは水を撒いて追い払ったと言うから、かなり勝気な性格だったようだ。おきた人気のおかげで水茶屋の難波屋は大変潤い、おきたは「金箱娘」とも呼ばれた。 歌麿の絵には、おきたがお茶を運んでいるカットがとても多いので、彼女は普通の看板娘とは違い、自ら接客を行なっていたようだ。 娘盛りを過ぎると一時店に出なくなるが、どうやら好きになった男と一緒になったらしい。その後、再び店に戻り、年を取るまで働きながら幸せな一生を送った。
ところで、水茶屋の評判娘のなかには、供の少女を引き連れ、まるで花魁のように、煌びやかな衣装や高価な髪飾りを身につける者もあらわれた。人気に伴って給料もどんどんあがっていく。それだけじゃない。中には店の娘が客を引き込んで茶を飲ませた後、別室に招き、売春行為をして荒稼ぎする者まであらわれた。そうなると幕府もだまっちゃいない。水茶屋の店構えを豪華にせず、雇う女は13歳以下、40歳以上に限り(なんとも野暮な年齢制限!)、美服を着せてはならないという禁令まで出す始末。そこまでしないといけないほど、江戸の男たちは水茶屋の娘にイカれていたということか。
(川柳)「おおたわけ茶店で腹を悪くする」
(歌麿「当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」)
家紋から、下左(三つ柏)が高島屋おひさ、下右(桐)が難波屋おきた、上が富本豊雛
(左:「桐」=難波屋おきた 右:「三つ柏」=高島屋おひさ)
(歌麿「高名美人六家選 再出 難波屋おきた」)
(歌麿「江戸高名美人 難波やおきた」)
(歌麿「茶托を持つ難波屋おきた」)
(歌麿「難波屋おきた」)
歌麿「難波屋の店先のおきた」
(歌麿「名所腰掛八景 鏡」)
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