「笠森お仙と柳屋お藤」
明和の三美人と言っても人気に違いはあったよう。一番は、断トツで谷中・笠森稲荷門前の茶屋「鍵屋」で働く「笠森お仙」、次が浅草・奥山の楊枝屋「柳屋」で働く「柳屋お藤」浅草・二十軒茶屋「蔦屋」で働く「蔦屋およし」を描いた浮世絵はいくら探してもなかなか出会えない。だから明和の二美人は、笠森お仙と柳屋お藤。この二人の美しさの特徴、どんなものだったのだろうか?浮世絵だけ見ていてもよくわからない。鈴木春信が、二人セットにした絵をいくつか描いている(「鍵屋を訪れたお藤に茶を出すお仙」、「柳家見立三美人」など)が、違いが分からない。大体、浮世絵の美人画にあっては、モデルの女性がどのような顔立ちをしているかということよりも、どの浮世絵師の美人の型で表されているかということの方が大切だったようだ。だから、一筆斉文調が描くお仙は、春信よりもややふっくらし大人びているが、彼が描くお藤との違いはやはり分からない。浮世絵師の興味関心の対象が、美人の個性よりも自分の美人表現自体にあったことがわかる。このことは歌麿についても同様。有名な「当時三美人」を見ても、難波屋おきた(浅草寺門前の水茶屋の看板娘)、高島屋お久(両国の煎餅店高島屋の娘)、それに富本豊雛(富本節の名取の吉原芸者)の三人は、微妙なニュアンスの差が口元に表されているだけで顔の目鼻立ちにはほとんど変わりがない。
このように、浮世絵から笠森お仙と柳屋お藤の美しさの違い、特徴を知ることは難しい。ここは江戸の庶民文化の大御所太田南畝(蜀山人)先生に登場願おう。若き日の大田南畝は、『売飴土平伝(あめうりどへいでん)』(鈴木春信画)のなかの「阿仙阿藤優劣弁(おせんおふじゆうれつのべん)」という文章を書いて、二人の美女の容貌を比較し、論評している。 それによれば、お仙は「琢(みが)かずして潔(きれ)いに、容(かたち)つくらずして美なり」と化粧や髪飾りに頼ることなく、「天の生(な)せる麗質、地物の上品」をそなえているとする。一方のお藤は、眉を淡く掃き口紅は濡れたように化粧上手、象牙の櫛や銀の簪で髪を美しく飾って、隙(すき)がない。俗にいう「玉のような生娘(きむすめ)とはそれ此れ之を謂うか」と嘆賞する。両者の美の雌雄は決しがたく、人気も二分されて軍配の上げようがなく困ったところに王子稲荷大明神が現れて裁定を下し、決着する。お藤の方は浅草という繁華の地に在るのに対して、お仙の方は谷中の端の日暮里(ひぐらしのさと)という郊外で、しかもいち早く評判を取ったことから、お仙が勝ちとされるのである。
「一たび顧みれば、人の足を駐(と)め、再び顧みれば、人の腰を抜かす」
これほどの美人、笠森お仙。夢の中で一度でいいから出会いたいものだ。
(鈴木春信「柳家見立三美人」)
(一筆斉文調「鍵屋お仙」)
(一筆齊文調「猫を懐に入れる笠森お仙」)
一筆斉文調「傘森お仙」
(歌麿「当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」)
(『売飴土平伝』 飴売土平)
(『売飴土平伝』 笠森お仙)
「社前には参詣の人もなく、賽銭箱に投げ入れられる銭の音も無い。俄かにして一朶(だ)の紫雲下り、美人の天上より落ちて、茶店の中に。」
(『売飴土平伝』 柳家お藤)
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