「難波屋おきた VS 高島屋おひさ」
1590年徳川家康の関東入国から1873年までの江戸府内外の出来事を編年に記録し、江戸の地理的沿革・風俗等を克明に記載した年表がある。『武江年表』である。武江とは武蔵国江戸の意で、著者は『江戸名所図会』を書いた斎藤月岑。その中で、寛政の三美人についてこう書いている。
「浅草随神門前の茶店難波屋のおきた、薬研堀同高島のおひさ、芝神明前菊本のおはん、この三人美女の聞き有りて、陰晴をいとはず此の店に憩ふ人引きもきらず」
他方、歌麿の錦絵『当時三美人』(寛政5年頃)には画中に「当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」の書き入れがある(書き入れがない版もある)。いずれにせよ寛政の三美人も、難波屋おきたと高島屋おひさの二人の地位はゆるぎないものだったようだ。しかし二人で比べれば、難波屋おきたの人気が上。江戸風俗の百科事典『嬉遊笑覧』の著者・喜多村信節(のぶよ)は、『武江年表補正』の中でこう書いている。
「(おきた見たさに)隋身門前は見物人混みあいて…(略)…、しかし、両国のおひさの前はさほどにはなかりき」
とは言え、15歳頃のおひさを描いたとされる「高島屋おひさ」のおひさは文句なしに美しい。団扇を手に(顎にあてがっているようにも見える)凛とした姿で振り返るおひさ。黒の衣裳がその美貌ぶりを印象的に際立たせ、ざっくりとあいた首元はなまめかしさを漂わせている(これが15歳の女か!江戸の女性は早熟だったようだが)。画の左側には唐花忠紋の狂歌。
「愛敬も茶もこぼれつつさめぬなり、とハはつ夢のたかしまやとて」
おひさは江戸両国薬研堀米沢町2丁目の煎餅屋高島長兵衛の娘で、家で経営する両国の水茶屋に出ていた。つまrり、難波屋おきたをはじめ当時人気のあった女性の多くが水商売だったのに対して、おひさは堅父の娘。おきたに人気の点で劣ったのはそのあたりと関係があるのかもしれない。後に養子を貰い、二子をもうけたが、早死したと伝えられる。歌麿は、眉を剃り落とした女房姿のおひさ(「高名美人六家撰 高島屋おひさ」)も描いている。
それはともかく、二人の美しさが際立っていたことは間違いない。歌麿はその二人の美人を腕相撲、「首引き」、囲碁で競い合っているところを絵にした。もちろんそんな美女対決、実際にあったわけではないだろうが、庶民の願望を反映した作品なのだろう。ところで対決と言えば、難波屋おきたがなんと仁王様と「枕引き」対決(木枕の引き合い)をしている「おきたと仁王の枕引き 難波屋おきた」。なんともユニークな作品。改めて、歌麿、いや江戸の想像力の豊かさに感心する。
(歌麿「腕相撲 西ノ方関 浅草難波屋きた 東ノ方関 両国高しまひさ」)
(歌麿「腕相撲 西ノ方関 浅草難波屋きた 東ノ方関 両国高しまひさ 」)おきたの勝ち!
(歌麿「二美人の首引き 「西の方 なにわやきた 東の方 たかしまひさ」 」)
(歌麿「囲碁を囲む五美人」)
(歌麿「おきたと仁王の枕引き 難波屋おきた」)
胸元はだけてこんな目で見つめられたら、仁王だって勝てっこない
(歌麿「高嶋おひさ」)
(歌麿「高名美人六家撰 高島屋おひさ」)眉を剃り落とした女房姿のおひさ
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