「笠森お仙」

  江戸の数ある稲荷の中でも、谷中の笠森稲荷は近くの水茶屋(寺社の門前などに設置された休憩所)の看板娘で有名になった。「鍵屋のお仙」である。元々商家では娘を店先に出すことはなかったが、商業が活発になるにつれ身内の女にも手伝わせるようになったようだ。決して上手いとはいえない素朴な接客が、かえって好評になり茶屋娘の知名度がアップ。中でも美人娘は客寄せ効果バツグン。ちなみに、江戸中期から寺社参詣が盛んになると水茶屋の数も急速に増え、とくに浅草寺境内には、二十軒ちかくも水茶屋が林立し、一帯の地名も「二十軒茶屋」と呼ばれるようになった。世田谷の「三軒茶屋」も大山道と登戸道の分岐付近に信楽、角屋、田中屋という三軒の茶屋が並んでいたことに由来する地名だ。

 寛政の三美人といえば、難波屋おきた・高島屋おひさ・菊本おはんで歌麿の美人画が有名だが、明和の三美人は、笠森稲荷の鍵屋お仙・浅草寺裏の柳屋お藤・二十軒茶屋の蔦屋およし。お仙は、13歳の頃から店に出ていたがブレイクするのは18歳のとき。当時、大人気の浮世絵師の鈴木春信が、おせんの美しさに魅了され、彼女をモデルにした浮世絵を次々と発表したところ、1765年あたりからがぜん人気が高まり、こんな手毬唄や川柳に歌われた。

    「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで おせんの茶屋へ」

    「水茶屋の娘の顔でくだす腹」

 この人気にあやかって、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売していたそうだ。ところが明和7(1770)年2月、お仙の姿が店から突然消える。茶屋の看板娘・お仙を一目観ようと茶屋を訪れても、いるのは禿げ頭のオヤジだけ(この時「とんだ茶釜が薬缶に化けた」と言う言葉が流行った)。贔屓の客たちは大騒ぎし、「他の水茶屋の主人に誘拐されて殺されたのだ」とか、「人気役者の瀬川菊之丞と駆け落ちしたのだ」など、さまざまな噂が立つ始末。お仙はどうしたのか?実は幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁いだのだ。もちろん、元は百姓の娘だったお仙なので、形式的に倉地家と同じ「御庭番家筋」である馬場家の2代目・善五兵衛信富の養女として結婚。まさに玉の輿。七男三女をもうけ、1829年に76歳で没したといわれている。

 実際のところ、お仙とはどんな女性だったのか?店に出ていたのは13歳から20歳まで。春信が描いたのは18歳からだから、ある意味清楚なイメージになるのは当然。しかし、茶屋娘の仕事、客あしらいもうまくないとやれなかったようだ。春信の絵の中にも、言い寄ったり、手を握ってくるような客が描かれている。旗本に嫁いだくらいだから、悪いうわさがあったとは思えないが、豊原国周「善悪三拾六美人 笠森お仙」のようなアダルトな雰囲気を漂わせたお仙や河竹黙阿弥作の歌舞伎「怪談月笠森」(武州草加在の名主・忠右衛門の二人娘・姉がおきつで妹がおせん。姉のおきつが恋のもつれから市助という男に殺され,おきつは幽霊となって化けて出る。気丈なおせんが市助を殺し、姉の恨みを晴らすというストーリー)の気の強いお仙を知ると、やっぱり女は不可解な存在(だから興味が尽きない)だと痛感させられる。

(鈴木春信「鍵屋の店先に立つお仙」)

(鈴木春信「笠森お仙と袖頭巾の若侍」)

(鈴木春信「鍵屋お仙と猫を抱く若衆」)

(鈴木春信「男の髪を梳く鍵屋お仙」) こんなサービスまでしていたのか

(鈴木春信「鍵屋を訪れたお藤に茶を出すお仙」) 明和の三美人のうちの二人が遭遇

(鈴木春信「柳家見立三美人」)

左が柳屋お藤、右が笠森お仙。真ん中は、二十軒茶屋の蔦屋およしではなく歌舞伎役者の菊之丞。もちろん男性なので、「見立」とされたのだろう。それにしても、「鍵屋を訪れたお藤に茶を出すお仙」といい、春信は蔦屋およしの美しさは好みではなかったのだろうか。それとも、三人の中でも特に、薄化粧のお仙と、化粧上手なお藤は対照的でともに人気が高かったらしいからだろうか。

(鈴木春信「団子を持つ笠森お仙」) 腕が透けて見えるのがなんとも艶めかしい

(豊原国周「善悪三拾六美人 笠森お仙」) 春信のお仙とはまるで別人

(歌川豊斎「怪談月笠森」)左がお仙

(歌川豊斎「笠森おせん 中村福助」)


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