「江戸の稲荷」
有名なものでは、関八州の稲荷の総元締「王子稲荷」。二月の初午稲荷祭では格別の賑わいを見せた。三井家が「三囲は三井を守るもの」と考え守護社にし篤く信仰した「三囲(みめぐり)稲荷」。それから「真崎稲荷」。「真崎」は「まっさき」と読む。石濱城主の千葉介守胤が、一族の繁栄を願って天文年間(1532~54)に建てたといわれているが、戦場の先駆けたれ、という願いを込めて「真っ先」=「真崎」と名付けられたとか。
ところで江戸時代の二月初午の稲荷祭。王子稲荷などでは、五色の幟が立ち並び、神前で神楽を奏し、供物・燈火をささげた。一方、裏長屋にある小さな稲荷でも、長屋の入口・路地・木戸外に染幟一対を左右に立て、木戸の屋根に武者を描いた大行燈を吊り、各借家の戸口に地口行燈を掲げた。そして稲荷の前では町内の子供たちが「正一位稲荷大明神」の幟を先頭に声を張り上げ、笛や太鼓を打ち鳴らした。勧化(かんげ)と称して銭を集めたり、豆や菓子をもらった。裏長屋の子供たちにとって、初午は、盆と正月がいっしょにやってきたような楽しみな祭であった。
「 繁昌さ太鼓の音の果てもなし 」
「 初午にてんでに二本持っている 」
「 初午に凧をあげるはすねた奴 」
江戸にある大小あわせて五千有余の稲荷で同時にその騒ぎだったので、江戸中が前日の宵宮から、鼓吹の音が天まで響く盛大な賑わいで、夜は社につらねた行燈・燈篭の燈が雑踏する群集を照らした。二月は行事も少なく、商人たちにはとにかく暇な月だったので、二月最初の午の日、稲荷の縁日を、江戸っ子は余寒と不景気を吹き飛ばす盛大な祭にしたのだった。
ところで、次の川柳は何を意味しているのか。
「 初午の日から夫婦はちっと息 」
子どもの寺子屋への入学である。その家の都合によって違いがあるが、大体七歳が普通の寺子屋入りの年齢で、習慣としてこの初午の日に行われていた。幕末には、六歳の年の六月六日になったようだが。
(豊国「王子稲荷初午祭ノ図」)
(豊川稲荷 東京別院)
(広重「江戸高名会亭尽 三囲之景」)土手の下に鳥居があるのが三囲稲荷の特徴
(広重「銀世界東十二景 真崎の大雪」)
(勝川春章「正一位三囲稲荷大明神」)
(鈴木春信「初午」)
(『江戸府内絵本風俗往来』寺子屋入り)
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