「己の影で病者を癒す聖ペテロ」
建築のブルネレスキ、彫刻のドナテッロに続き、絵画においてルネサンス様式を確立したのはマザッチョ。そしてマゾリーノとマザッチョによって描かれた、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂内ブランカッチ礼拝堂の壁画連作こそ、15世紀フィレンツェの絵画におけるルネサンス様式の確立を高らかに宣言している。この壁画連作の中に、「楽園追放」とともに印象に残る絵がある。それは「己の影を投じて病者を癒す聖ペテロ」である。聖書の次の場面に基づく。
「 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。・・・人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。」(使徒言行録5章12節~16節)
なぜ印象に残ったかと言うと、神でもないペテロがなぜこのような奇蹟を行えるかを不思議に感じたからだ。マゾリーノが描いた「タビタの蘇生」では何と奇蹟中の奇蹟ともいえる死者の蘇生まで行っている。
「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。」(使徒言行録9章 40節)
神と一体であるイエスが死んだラザロをよみがえらせるのはわからなくもない。しかし、一神教のキリスト教において、奇蹟を行えるのは神のみのはず。人々が聖母マリアに祈るのも、マリア自身によって奇蹟を起してもらうためではなく、神に願いをかなえてもらえるようにマリアに執り成し(仲介)をお願いしているのだ。守護聖人に祈るのも同じ。彼ら自身に奇蹟を起す力はない。だから、日本人が天神様に合格を祈願したり、お稲荷さんに商売繁盛を祈願するのとは全く違う。神道においては天神様自身に合格を実現させる力、お稲荷さん自身に商売を繁盛させる力があるとされているからだ。だから、神道は多神教なのだ。
ではなぜペテロが奇蹟を行うことができたのか。もちろん彼自身の力によってではない。彼に降った聖霊(神と一体。神、イエス、聖霊は三位一体)の力による。復活したイエスは昇天する前に、使徒たちにこう告げる。
「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1章8節)
そして、五旬節の日が来て、使徒たち一同が一つになって集まっていた時聖霊が下る。
「・・・突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、″霊″が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録 2章1節~4節)
聖人の遺骨などの聖遺物に対する信仰も、聖遺物に力があるとする考えに基づくが、その力とは、神に働きかけて病を治させたり奇蹟を起させたりする力であり、あくまで病を治し奇蹟を起すのは神自身だということ、だから一神教なのだ、キリスト教は。しかし、イスラム教やユダヤ教の一神教とはかなり異なっているように感じるのだが。カトリックとプロテスタントでは大きな違いがあるのはもちろんだがもちろん。
(マザッチョ「己の影を投じて病者を癒す聖ペテロ」)
(マゾリーノ「タビタの蘇生」)
(エル・グレコ 「聖霊降臨」 プラド美術館)
(マザッチョ「楽園追放」)
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