「江戸の誕生 上野」②
「忍ヶ丘」に「不忍池」。江戸時代には「忍川」もあり、そこに架かる橋(3つあったので「三橋」、通称「三枚橋」)を渡って黒門を通り寛永寺に向かった。真ん中の橋「御成橋(おなりばし)」は、将軍が寛永寺にお参りする時に将軍のみが使用する橋で、庶民は左右はの通行が許されていた。この橋にまつわるエピソードと言えば高杉晋作の「御成橋事件」(文久3年【1863】正月5日)が有名。
安政の大獄で死罪に処せられた師の吉田松陰を改葬するため、高杉らは小塚原刑場で松陰の遺骨を掘り出し大甕に納め、改葬先の長州藩別邸のあった世田谷若林の大夫山をめざした。葉室麟『春風伝』は次のようにごく簡単に記述。
「 この日、晋作は将軍が東叡山に参る際の〈御成橋〉である上野山下の三枚橋を、橋役人の制止を振り切り、『長州浪人、高杉晋作である』と凛凛と名のって松陰の遺骨を入れた大甕とともに押し渡った。霙が降り出した。」
史実にはない出来事だが、いかにも高杉の放胆さを伝えるエピソード。池宮彰一郎『高杉晋作』はもう少し詳しく記述。
「 一行が、上野の山下、三枚橋に通りかかった時だ、晋作は葬列を叱咤した。
『真ん中をわたれ』
三枚の橋の中央は、将軍御成りの橋である。番士が制止すると、晋作は馬上で槍の鞘を払い、
『勤王の志士、松陰吉田寅次郎の殉国の遺骨が通る。これは勅命である』
と、傲然と言い放ち、番士が『名乗れ、名前は』と、わめくと、
『長州浪人、高杉晋作』
と、うそぶいて通った。」
昨日亡くなった古川薫は『高杉晋作―戦闘者の愛と死―』のなかで、高杉に役人に対してこんなセリフまで吐かせている。
「『橋は天下の通路である。将軍一人が渡るだけの橋があってなろうか。よう聞け、われわれは先年伝馬町の獄に斬られた志士吉田松陰先生の遺骸を改葬するものだ。天朝の命によってこれを行うのである。強いて止め立てするなら、長州藩士高杉晋作、お相手いたす』」
三橋(三枚橋)があったのは、現在の現在中央通りと不忍通り交差点の辺り。現在ではあんみつ屋「みはし」本店以外昔をしのぶよすがはない。ところで、不忍池に関わるこんな川柳がある。
「不忍の茶屋で忍んだ事をする」
「池の名に背いて蓮の茶屋へ来る」
この茶屋はただの茶屋ではない。人目を忍ぶ男女密会の場、「出会茶屋」(今のラブホテル。湯島界隈にラブホテルが多いのは、その名残のようだ)だ。泊りはなく、料金は食事つきで1分(4分の1両。今の1万円以上)が相場。休憩利用だけでこんなに高いのだから、庶民が気軽に使える場所ではなかった。常連客は、大店の未亡人と若い番頭とか、江戸城の女中と歌舞伎役者など、金はあっても、世間をはばかるカップルたち。こんな川柳もある。
「蓮を見に息子を誘ういやな後家」
関係が進むと、隅田川の屋根付き船を利用したようだが、秘めた恋なら最初からこっちにすればいいと思うのだが。
(栄之「上野三枚橋之図」) 手前に三枚橋、先に黒門が描かれている。
(広重「東都八景 上野晩鐘」)
(安政4年(1857)「東都下谷絵図」)三橋と黒門の位置がよくわかる
(「吉田松陰像」 山口県文書館蔵)
(「松陰神社」世田谷区)
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