「江戸の誕生 上野」①
錦絵による名所絵揃物『東海道五十三次』のヒットを背景に広重が描いた『近江八景』。「近江八景」とは琵琶湖南西岸の八つのすぐれた景観で、中国湖南省洞庭湖付近の名勝「瀟湘(しょうしょう)八景」を模して選ばれた。芝増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺上野の寛永寺もこの「見立て」に基づいて天海僧正(家康、秀忠、家光の3代の将軍から深く信任された)によって建立された。
天台宗祖伝教大師(最澄)は京都の鬼門にあたる比叡山に延暦寺を創立(788年)したが、天海は江戸城の鬼門にあたる上野に、関東の叡山、延暦寺同様年号を寺号とする「東叡山寛永寺」を創立した。当時の上野は、狐や狸も棲み、雑木の繁る寂しい山だったが、天海僧正の勧めで、将軍や諸大名の寄進によって山内(さんない)には多数のお堂が建てられていった。桜の名所として多くの浮世絵に描かれた「清水観音堂」は、京都の清水寺を模して「舞台造り」(「崖造」=「懸造」=山の崖や河の岸に張り出してつくられた建造物)とされた。御本尊も清水寺から恵心僧都作の千手観音像を迎え秘仏となっている。現在の「上野バゴダ」の地には、京都東山の方広寺の大仏を模して、大仏(関東大震災で首が落ち、第二次世界大戦時に軍の供出令で胴体が重用されたため、現在は顔のみ残る。「(これ以上)落ちない大仏」として今では受験生らが年間100万人ほど訪れるということ)がつくられた。また現在の精養軒の場所には、京都の八坂の祇園(八坂神社)を迎えて祇園堂がつくられた。
さらには、不忍池。この名は、上野台地が「忍が丘」といったのに対して500年ほど前からこの名で呼ばれていたが、この池の中ほどに古くから小さな島があって聖天さまが祀ってあった。天海僧正は、寛永寺建立の数年後、琵琶湖の竹生(ちくぶ)島にならって島を築き、弁天堂を建立。ここの御本尊の八臂大辨財天も、竹生島の宝厳寺から勧請(かんじょう)した(ところで辯天さまは「辯財天」と「辯才天」の二様に書くが、「辯財天」と書くときは、「進んで他人に財宝を施して社会を明るくするようにする」意味で、「辯才天」と書くときは、「進んで他人に才覚、知恵を施してお役に立つようにする」意味という違い)。当初、参詣者は舟で往復したが、1670年頃(寛文年間)に正面参道の陸橋ができてから参詣が便利になる。現在上野と言えば花見の名所として有名だが、もともと上野の山の桜は天海僧正が吉野山から移植したもの。天海僧正は不忍池の魚鳥をとることを禁止し、また供養のために魚鳥や亀などを放つ「放生池」(ほうじょうち)と定め、そこに紅白の蓮を植えた。
天海僧正が行ったのはこれだけではない。今の「国際子ども図書館」の通りにもみじを植え、そこは江戸時代「錦小路」と呼ばれるようになった。さらに梅や松、寒椿も植えた。こうして、春は桜の花見、夏は蓮と池畔の夕涼み、秋には紅葉と月見、冬は寒椿、梅と雪見と、上野の地は四季折々の景色をそなえ、一年を通して庶民が訪れる名所となっていった。これらを私財を投じて行った天海僧正。108歳まで生きたとされるが、長命の秘訣をこう歌に詠んでいる。
「気は長く つとめはかたく 色うすく 食細うして 心ひろかれ」
僧正の爪の垢でも煎じて飲みたいものだ。
(広重「東都名所 上野山王山・清水観音堂花見・不忍之池全図 中島弁財天社」)
(広重「東都名所 上野東叡山全図」
(広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」)
(「上野大仏」)現存せず
(広重「江戸名所 不忍の池」)
(「江戸名所図会 不忍池 蓮見」)
(渓斎英泉「江戸八景 忍岡の暮雪」)
(「東叡山寛永寺開山 慈眼大師・天海大僧正」寛永寺本覚院)
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