「パリの守護聖人」② 聖ジュヌヴィエーヴ
1582年に開業し、ヨーロッパでも最も古いレストランのひとつ「トゥール・ダルジャン」。鴨料理とともに5階にある客間から眺められるシテ島のノートル・ダム大聖堂を中心としたパノラマでも有名。パリ5区のトゥルネル河岸通りにあり、目の前はトゥルネル橋。そこに大きな彫像がある。パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴ像である。日本人にはなじみが薄いが、パリの主な教会(ノートル・ダム大聖堂、マドレーヌ寺院、サントゥスタッシュ教会、サン・ジェルマン・デ・プレ教会、サン・テティエンヌ・デュ・モン教会など)でには、たいてい聖ジュヌヴィエーヴにささげられた礼拝堂や祭壇があり、そこには必ず、彼女の物語を描いた絵や彫刻が飾られている。聖ジュヌヴィエーヴとは、いったいどんな人物だったのか。
5世紀前半に中部ヨーロッパに建国されたフン族の王アッティラは、その容赦のない暴虐ぶりから、ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」「神の鞭」と呼ばれ恐れられた。そのアッティラが、451年ライン川を超えてガリアに侵入。たちまちトレーヴ、メス、ランスを攻略した。ランスでは、司教ニカシウスが教会の祭壇で虐殺された。アッティラの軍勢がパリに迫ったとの知らせが届くと市民たちは恐怖におののく。パリ市民の主だった連中は、安全な場所へ逃亡するため、家財道具をまとめ始める。それをジュヌヴィエーヴはおしとどめようとする、キリストのお守りがあるなら、パリは必ず救われるのだから、と。人々の反抗の声が大きくなり、彼女をにせ預言者とののしり、石で打とうとする者、井戸の底へ投げ込めと叫ぶ者まで出てきた。この時、知らせを受けてオセールの町から司教代理がかけつける。今は亡き聖なる司教ジェルマン(「オセールの聖ジェルマン」)が、ジュヌヴィエーヴを神に選ばれた女と認めていたことを告げる。興奮していたパリの人々も少しずつ落ち着きを取り戻し、すべてをジュヌヴィエーヴの祈りに託することとなる。アッティラはそのまま西進せず、南に折れて、オルレアンをうかがい、再び北方へ退いて行った。「祈りによって、フン族の軍勢をパリから遠くへと迂回せしめたジュヌヴィエーヴ」とジュヌヴィエーヴ伝の作者は記した。
ところで「オセールの聖ジェルマン」の名を冠した教会がルーヴル美術館のすぐ東にある。「サン・ジェルマン・ロクセロワ教会」(Eglise Saint-Germain l'Auxerrois)である。かつて、ここの鐘が合図となってフランス史上最大の大虐殺といわれる大事件が起こった。1572年8月24日のことである。この日は聖バルテルミーの日だったことから、歴史上「聖バルテルミーの大虐殺」と呼ばれる。パリだけで3~4千人、フランス全土でも10数万人ものプロテスタント信奉者の命を 奪われたとされる。
(「トゥール・ダルジャン」(正面)とトゥルネル橋の「ジュヌヴィエーヴ像」)
(トゥルネル橋の「ジュヌヴィエーヴ像」)
(「アッティラが武装解除するように祈る聖ジュヌヴィエーヴ」ノートル・ダム大聖堂 ショレ)
(「ジュヌヴィエーヴ像」ノートル・ダム大聖堂)
(「ジュヌヴィエーヴ像」サン・ジェルマン・デ・プレ教会)
(「ジュヌヴィエーヴ像」サン・テティエンヌ・デュ・モン教会)
(「ジュヌヴィエーヴ像」マドレーヌ寺院)
(「ジュヌヴィエーヴ像」リュクサンブール公園)
(モネ「サン・ジェルマン・ロクセロワ教会」ベルリン 旧国立美術館)
若きモネは、ルーヴル宮の窓から眺めたパリの賑わいを、光と陰の効果の中に描き出した。
(フランソワ・デュボワ「サン・バルテルミーの虐殺」ローザンヌ美術館)
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