「パリの守護聖人」①

 イタリアでは、全国共通のナショナルホリデーのほかに、自治州、市町村ごとのローカルホリデーがある。ローマは6月29日の「サン・ピエトロとサン・パオロの日」、フィレンツェは6月24日の「サン・ジョヴァンニの日」、ヴェネツィアは4月25日の「サン・マルコの日」。それぞれの町の守護聖人にまつわる祝日だ。そしてそれぞれの町には、守護聖人関連の聖堂、彫刻、絵画を多く見かけ、祭りもおこなわれている。教会では、ローマはサン・ピエトロ大聖堂とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂。それぞれペトロとパオロの墓の上に建てられている。「サン・ジョヴァンニ」は「聖ヨハネ」のイタリア語名だが、キリスト教では「ヨハネ」と言えば、イエスに洗礼を施した「洗礼者ヨハネ」と「福音書記者ヨハネ」のふたりが有名。フィレンツェの守護聖人は前者(「サン・ジャバンニ・バッティスタ」=「バプテスマのヨハネ」=「洗礼者ヨハネ」)だ。ドゥオモ付属洗礼堂が「天国の門」で有名なサン・ジョヴァンニ洗礼堂だ。ヴェネツィアはもちろんサン・マルコ寺院。828年、ヴェネツィアはエジプトのアレクサンドリアにあった福音書著者聖マルコの遺骸を、奪い取りヴェネツィアに運び、守護聖人とした。いかにも商業国家ヴェネツィアらしいやり口だ。

 では、パリの守護聖人は誰か。サン・ドニとサント・ジュヌヴィエーヴ。伝説によるとサン・ドニはモンマルトルで斬首されたが、首を刎ねられてもすぐには絶命せず、自分の首を持ってパリ郊外のサン・ドニ(街)の地まで(なんと6キロ!)歩き、そこで倒れて絶命したとされる。以後そこがサン・ドニと呼ばれることとなり、教会堂が建てられた。これが、現在のサン・ドニ大聖堂の始まりだ。ここはフランスの王と王族が何世紀にもわたって埋葬されてきた場所であり、これによりしばしば「フランス王家の墓所」と呼ばれる。ただし、フランス革命の最中の1793年7月31日、「かつての王どものいまわしい思い出」をそそる一部の建物を破壊する命令が下され、3日間で51の国王の墓所が破壊され、47の寝像が砕かれた。その2カ月後、猛り狂った暴徒の群れは地下聖堂にも押し入り、2週間にわたって敷石をはがし、棺をくつがえし、死体を粉砕し、遺骨を散乱させた。フランス革命の負の側面を象徴する出来事である。

 ところでサン・ドニ像。彫刻でも絵画でも一度見たら忘れられない姿だ。はねられた自分の頭を自分で両手に抱えている。「シュザンヌ・ ビュイッソン小公園 Square Suzanne Buisson」は、モンマルトルの丘の北西エリアにある小公園だが、 サン・ドニが切り落とされた自分の首を洗ったという井戸があった場所にサン・ドニ像が立っている。ノートル・ダム大聖堂の西側のファサードの南入口には、天使に挟まれたサン・ドニ像がいる。パンテオンではレオン・ボナの「サン・ドニの殉教」、ルーヴル美術館ではアンリ・ベルショーズの「サン・ドニの殉教」の絵を見ることができる。なんとも奇妙なパリの守護聖人サン・ドニ。守護聖人を皮切りに、パリの街の個性、魅力について探ってみたい。

(レオン・ボナの「サン・ドニの殉教」パリ パンテオン)部分

(「サン・ドニ大聖堂」サン・ドニ)

(「サン・ドニ像」モンマルトル シュザンヌ・ ビュイッソン小公園)

(「サン・ドニ像」クリュニー中世美術館)

(「ノートル・ダム大聖堂」 西側ファサード 南入口)

(レオン・ボナの「サン・ドニの殉教」パリ パンテオン)

(アンリ・ベルショーズ「サン・ドニの殉教」ルーヴル美術館)


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