「江戸っ子と鯉のぼり」
江戸っ子気質に関わる表現はいろいろある。「粋でいなせな江戸っ子」、「江戸っ子は宵越しの銭は持たねえ」、「火事と喧嘩は江戸の華」。中でも好きなのは、江戸っ子らしい喩えを使ったこの表現。
「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」
口は悪いが、腹にはこだわりがなく気性はさっぱりしている江戸っ子をよく表している。GWが近づき、子どもの日(端午の節句)を前にあちこちで鯉のぼりを目にするようになった。この鯉幟(こいのぼり)。ルーツは中国。『後漢書』に、黄河中流の龍門の急流を登った鯉は龍に化したと信じられ、登龍門という言葉ができたとある。それで鯉の滝登りの絵が登竜門として流行するようになり、その鯉が大江戸武家の都で鯉幟になって飛び出し、大空に泳ぐようになった。今ではあまり見かけないが、「座敷幟」と言って、紙で作った鯉幟を室内に飾ることもあった。『東都歳時記』にこうある。
「座敷のぼりと号して屋中へかざるは、近世の簡易なり。紙にして鯉の形をつくり、竹の先につけて幟と共に立る事、是も近世のならはしなり。出世の魚といへる諺により男子を祝すの意なるべし。ただし東都の風なりといへり」
五月晴れの大空を気持ちよさそうに泳ぐ鯉幟。生み出したのは町人。戦の陣地に立てる旗状の幟(のぼり)や吹流しを掲げた武家に対抗したのだ。一本の竿に何匹もの鯉のぼりが並んで飾られるようになったのは、明治以降のことで江戸時代は一匹のみ。
「五月雨が晴れると鯉の竹のぼり」
「滝のぼり」と「竹のぼり」の語呂合わせもいい。浮かぶのは広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」。画面を覆い尽くすかのように大きく大胆に描かれた一匹の鯉のぼり。晩年の広重が多用し近接拡大したモティーフを手前に大胆に描き、極端なまでに遠近を強調する構図。印象派をはじめ19世紀後半のヨーロッパ人に大きなインパクトを与えたこともうなづける。
(端午の節句 『徳川盛世録』)
鯉のぼり、吹流し、その家の家紋と母方の家の門の両方を染めたものが一対となった幟、魔除けの鍾馗の旗が見える。
(『東都歳時記 端午市井図』)
紙で作った鯉のぼりを売り歩く男も手前真中描かれている。
(喜多川歌麿「五節供 端午」)
端午の節供の祝いに訪れた客に挨拶する母と、腰に飾り刀を差して母を見上げる男児。
(広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」)
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