罪深き人間① ―ダビデの罪―
今の学校教育に決定的に不足していると思うもののひとつは、人間理解教育。人間とはどのような存在か、どれほど弱く、愚かで、罪深い存在であるかを教えていない。道徳教育の重要性は叫ばれても、「人間はどうあるべきか」ばかりで、「人間はどうあるか」を教えていない。だから、自分の中に愚かさ、醜さを見出した時、ほとんど無意識に目をそらそうとする、自己嫌悪の苦しみに陥らないようにするため。こんなことで自己肯定感など生まれるはずがない。自己肯定感は、自分の中に優れた点を見出して生まれるものじゃない。愚かで、罪深い自分も含め、トータルな自己を受け入れること、ありのままの自分に愛おしさを感じるところから生まれるもの。自己肯定できない教師が、生徒に寛容になれるはずがない。生徒の悩みに正面から向き合い、寄り添うことなどできない。思春期・青年期的葛藤のただなかにあり、自分の生きる方向が見えずにもがいている生徒の共感的他者になどなれようはずもない。せいぜいが同情するだけだ。
旧約聖書の物語は、人間の赤裸々な姿をあらゆる角度から描いている。英雄ダビデを見てみよう。ミケランジェロ作「ダビデ像」をはじめ、石投げ器ひとつで巨人ゴリアテを倒し、エルサレムを聖都に定め、40年間全イスラエルの王として君臨した英雄のイメージが強い。当初は、神からも次のように祝福されていた。
「 あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。・・・・あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(サムエル記下 7章 9、16節)
そんなダビデも罪を犯す。家臣ウリヤの妻バト・シェバと姦通し、妊娠させてしまう。不倫の子が自分の子だとばれないように、戦場からウリヤを召喚し、バト・シェバと床を共にさせようとするも、ウリヤは戦場の主君や仲間を思って家に帰らず、王宮の入口で眠る。ダビデは次の策略を考え、ウリヤの上官に書状を送る。
「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」
(「サムエル記下」 11章 15節)
ウリヤは死に、バト・シェバは男子を出産。もちろんダビデの行いは、主の御心にかなわず、主はナタンをダビデのもとに遣わされた。そしてナタンはダビデを叱責。ダビデは「わたしは主に罪を犯した。」と己の罪を悔いる。しかしナタンはこう言う。
「 その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」(サムエル記下 12章 27節)
バト・シェバが産んだ子は7日目に死亡。その後も、ダビデの異母兄弟たちは骨肉の争いを続ける。異母兄アムノンは、異母妹タマルを犯し、捨てる。それを知ったタマルの兄アブサロムはアムノンを殺害。その後、アブサロムはダビデに反乱をおこし、ダビデをエルサレムから追放する。しかし、彼もダビデの勇将ヨアブによって刺殺される。息子の死を知ったダビデは泣き叫ぶ。
「ダビデは身を震わせ、・・・・泣いた。・・・・『わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。』」(「サムエル記下」 19章 1節)
そして晩年のダビデは、「衣を何枚着せられても暖まらなかった。」(列王記上 1章 1ー2節)という。家来たちが、若い処女を探してそばにはべらせ、暖かくなるようにふところに抱いて休ませようとしたが効果はなかった。
英雄ダビデにしてこうなのだ。人間は弱く、愚かで、罪深い。キリスト教徒なら、信仰によってしか救いはない、となるのだろうが、信仰を持たない人間も人間存在のありのままの姿をまず見つめることから始める必要がある。そこからの解放、救済はそれぞれ考えればよい。少なくとも、人を育てる教師は人間存在のありのままの姿から目を背けてはいけない。開き直らず、ありのままの自己と向き合い続ける誠実さこそが教師になる、また教師を続ける不可欠の条件だと思う。
(アレクサンドル・カバネル 「タマルとアブサロム」)
アムノンに犯され捨てられたタマルとアムノン殺害を決意するアブサロム
(ミケランジェロ「ダビデ」)
(ニコラス・コルディエ「ダビデ王」ローマ、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)
(レンブラント 「バト・シェバ」 ルーヴル美術館)
ダヴィデ王からの召喚状を受け取り思い悩む水浴後のバト・シェバ
(「ダヴィデを叱責する預言者ナタン」)
(「アブサロムの死」 シエナ大聖堂)
(ペドロ・アメリコ「ダヴィデとアビシャグ」)
ダビデを温めようと懸命に奉仕するアビシャグ
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