「ユリウス・カエサル ~リーダーの条件~」⑤
紀元前49年1月12日、ラヴェンナとリミニの間を流れるルビコン川をカエサルは兵を率いて渡る。夏には水が涸れてしまうような小川だが、ここがカエサルの任地属州ガリアとイタリア本国を分ける境界線。任地を出るときは、軍を率いてはならず、軍を伴うことは大逆罪として極刑に処せられる決まりだった。それでもカエサルは兵を率いてルビコン川を渡る。まさに「賽は投げられた」。なぜそのような行動に出たのか?カエサルを理解するには、おそらくその前後数百年のローマの歴史を眺めながら彼の構想を知る必要がある。
彼は、当時のローマが抱える課題を明確に認識していた。ロムルスによるローマ建国からポエニ戦争に至る約600年の間、ローマは拡大路線を歩んできた。王政から共和政への移行も、ローマがさらに拡大していくためには必要不可欠なことだった。そして、共和政ローマはカルタゴとの決戦を経て、ついに地中海の覇者になった。あまりに急激に膨張したローマの領土。これをいかにして統治するか。拡大路線をやめ、安定成長路線にシフト・チェンジする必要がある、そして拡大した領土の統治には都市国家時代には有効だった共和政、すなわち元老院主導体制(集団指導体制)は有効に機能しない(むしろ有害)、自らが終身独裁官となってローマ世界の新秩序を樹立する必要がある、そのためにまず執政官に就任する、ガリア戦役で獲得した名声を背景に、執政官という現体制内で実行できる方法で改革を推進する。これが彼の構想だった。
しかし、軍団を解散して丸腰でローマに入れば、反カエサル派の餌食になることは目に見えている。カエサルはガリア総督時代に、法廷に引き出され告発の集中砲火を浴びてもしかたがない行為を多々行っていた。専守防衛が任務であるはずの属州総督の身分で、任地の属州を超えて遠征し、ライン河を渡ってゲルマン人の地に攻め込んだり、ドーヴァー海峡を渡ってブリタニアまで遠征した、その場合に必要な元老院の認可も得ないで。四個軍団の増強も自己負担で編成したとはいえ、やはり元老院の認可を得ずにやった。カエサルも配下の者を使って、カエサルが危険なく執政官に立候補、当選できるように様々な工作を試みるがうまくいかない。ついに反カエサル派は「元老院最終勧告」を提出。これに従わないものは、国家の敵とみなされ、裁判なしで死刑とされる。 カエサルは決断した。ルビコン川を前にしたカエサルを塩野七生はこう見事に表現した。
「ルビコン川の岸に立ったカエサルは、それをすぐに渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ち尽くしていた。従う第十三軍団の兵士たちも、無言で彼らの最高司令官の背を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚たちに言った。『ここを越えるえれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅。進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!』兵士たちも、いっせいの雄叫びで応じた。」
100年先を見越した構想を持った男にして初めてできた決断だったと思う。もちろん、彼の真意を理解できたものは絶望的に少なかったが。遠くを見据えなければ大業は成し得ない、しかし遠くを見据える者の真意は容易には理解されない。
(ルビコン川に架かる橋とカエサル像)
(ルビコン川)カエサルがどこを渡ったかは説が分かれている
(「カエサル像」ローマ文明博物館)
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