「洗足」の精神
勝海舟の墓がその畔にある洗足池の「洗足」は、日蓮上人がこの池で足を洗ったという伝説に由来する。では、川崎市にある洗足学園音楽大学の「洗足」は何に由来するか?キリスト教系の大学だから、日蓮とは関係ないはず。校歌を見ると分かる。冒頭の一節。
「互いに足を洗えとのりし み教え守るここのまなびや」
これは新約聖書のヨハネ福音書に由来する。最後の晩餐の際の出来事。
「イエスは、・・・食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。・・・あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」 (ヨハネによる福音書13節3節~17節)
この場面の教えを、「マルコ福音書」(10章43節~45節)はより分かりやすくイエスの言葉で語っている。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」
フランシスコ・ローマ法王は3月24日、ローマ郊外のカステルヌオーボ・ディ・ポルトにある難民受入施設で12人の難民の足を洗い、祝福のキスをした。
「私たちはみな同じ。イスラム教徒、ヒンズー教徒、カトリック教徒、コプト教徒、福音主義者・・・みな同じ神の下、兄弟であり子である。みな平和の中で共に生活することを望んでいる」
と洗足式前に行われたミサの中で法王は述べた。また3月29日にはローマにある刑務所で洗足式を行い、イスラム教徒2人、正教徒、仏教徒を含む受刑者らの足を洗った。受刑者たちに対し教皇は「人生を変える機会は常に誰にでもある。人が(人を)裁くことなどできない」と語り掛けたと言う。
しかし、幕末期のアジアにおける欧米列強のふるまいは、このようなキリスト教の教えとはまるで違って傲慢極まりない。イスラム教徒との共存の道もいまだに容易ではない。国家として行動するとき、構成員の信仰、思想、哲学は何の役にも立たないものなのか。どのような宗教だろうと、思想、哲学だろうと構わない。国家からの精神的自立、自立した個人としの国家との対峙が求められている、個人を大切にする国家の実現のために。
(ヴェロネーゼ 「弟子たちの足を洗うキリスト」 プラハ国立美術館)
(フォード・マドックス・ブラウン 「ペトロの足を洗うイエス」ロンドン テート・ブリテン)
(イギリス統治下のインド)輿にのったイギリス人を運ぶインド人
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