「勝海舟の墓詣で」

  退職したら真っ先に行きたかったのが勝海舟の墓。洗足池の畔にある。長年、赤坂の地に暮らした海舟の墓がなぜここにあるのか?話は1868年(慶応4年、明治元年)にさかのぼる。1月7日、新政府は慶喜追討令を発令。2月15日、有栖川宮熾仁親王を大総督、西郷隆盛を大総督参謀とする東征軍が京都を出発。一方、旧幕府側は、恭順の方針を決め、2月12日慶喜が江戸城を退出して上野寛永寺で謹慎。1月23日に陸軍総裁に任じられていた勝海舟は2月25日軍事取扱として幕府軍トップに就任して、新政府との交渉にあたる。3月13日、江戸に到着した西郷ら官軍が本営としたのが池上本門寺。勝はここに何度か出向く。その折りにほぼきまって通ったのが千束村。勝はそのあたりの深山の趣ある自然にぞっこん惚れこんだ。津田梅子(津田塾大学創立者)の父津田仙(農学者)の仲立ちで土地を購入し、1891年(明治24年)自ら「洗足軒」と名付けた別邸を建築した。ここで詠んだ勝の歌。

     池のもに月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし      

     うゑをかばよしや人こそ訪はずとも 秋はにしきを織りいだすらむ  

 今ではビルが立ち並びすっかり相貌を変えてしまったが、勝は「富士を見ながら土に入りたい」と遺言し、この地に眠っている。洗足池に映る富士の見える風光明媚なこの地の土に還りたかったようだ。

 ところで勝の墓の隣に並んでいるのは、勝の正妻お民の墓。勝は私生活では大の女好き(伊藤博文ほどではなかったと思うが)。今では考えられない妻妾同居の暮らし。身の回りの世話をし、勝の臨終にも付き添ったのはお糸。また大所帯の勝家の台所方を一手に引き受けていたのがおかね。毎朝二人そろって民の部屋の廊下に手をつき、朝の挨拶をするのが日課だったようだ。異腹の子が9人いたが、お民は分け隔てなく可愛がって育てた。それでも、勝と一緒の墓に入るのはごめんだったようで、「勝のそばに埋めてくださるな。わたしは小鹿のそばがいい」と、先に亡くなっていた(享年39歳)長男小鹿(ころく)が眠る青山墓地への埋葬を希望した。その願いはかなえられたが、50年後、この洗足池畔に改葬された。かつて深川芸者をしていたお民のこと「野暮なことを」とぼやいているに違いない。

(勝海舟と妻お民の墓)

(洗足池)

(江戸無血開城前の勝海舟)

(逸は妾お糸との間の子だが、お民が我が子同様に育てたことが伝わってくる写真)

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