「ユリウス・カエサル ~リーダーの条件~」④

 ルビコン川を渡る決断をするまでの5年間(前58年から51年)、カエサルは、ローマ軍を率いてガリア(現在のフランス)に遠征した。そこでの戦い方からカエサルという傑出したリーダーの特徴が浮かび上がる。ガリア戦役2年目、ガリア北東部で最強と言われたネルヴィ族との戦い。このネルヴィ族、ワインや贅沢品の輸入は禁止、部族の男たちは武術の訓練に明け暮れる日常をおくるという、まるでかつてのスパルタ人のような生活を送っていた。こんなネルヴィ族、「戦わずして勝つ」という兵法の基本に忠実なカエサルの講和の申し入れも当然拒絶。騎兵と軽装歩兵というかぎられた一部にしても、カエサル軍は敵に背を見せるというほどの激闘が展開された。カエサルは縦横に馬を駆り、適材適所に兵を動かし、味方の限られた戦力を効率的に発揮させ、総司令官の責務を見事に果たす。それだけではない。必要と思うと、主席百人隊長の役割も果たす。後衛の兵士から盾を奪い取ると、そのまま前線に出て、百人隊長たちに突入するよう檄をとばすことまでした。その勇気ある総司令官の姿に、兵士たちは奮闘し、戦況はローマ側に有利に展開し始めた。この激闘で、ネルヴァ族の成年男子は根こそぎにされた。6万にいた戦闘員のうち、生き残った者はわずか500人。カエサルはどのように戦後処理を行ったか。

「カエサルは彼らに、人質提供の条件もつけずに講和を認め、彼らの地に帰って住む権利も認めた。それどころか、近隣の諸部族には、ネルヴィ族を攻めてはならず侮辱も与えてはならないと命じたのである。カエサルの考えでは、闘いを起こすこと自体は罪ではなかった。」

           (塩野七生『ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ルビコン以前』)     しかし、次の戦いの講和では全く異なる対応をした。籠城していた戦闘員も住民も、全員(5万3千人)奴隷として売りとばした。なぜか。武装解除を条件として結ばれた当初の講和を破ったからである。誓約に反し、3分の1の武器を城塞内に隠し残したアドゥアトチ族は、講和成立の日の夜、陣営地で眠るローマ軍を襲撃したのだ。カエサルは、ことのほか誓約を重視した。カエサルは、ガリア人やゲルマン人を蛮族として見下すことはなく、その独自の文化を尊重していた。しかし、異なる文化を持った多数の民族が共存していくためには守らなければいけないルールがある。それが誓約、契約。そのことを冷徹に知らしめたのだと思う。

「戦いを起こすこと自体は、カエサルにしてみれば罪ではなかった。しかし、いったん交わした誓約を破り、攻めてきたことは、明らかに罪に値したのである。人間であることを放棄した者には、彼にしてみれば奴隷がふさわしい運命だった。」(同上)

(「瀕死のガリア人」ローマ カピトリーノ美術館)

(「カエサル像」ウィーン美術史美術館)

(ガリア戦役2年目 紀元前57年 カエサル進軍図)

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