「コヘレトの言葉」(旧約聖書)
信仰を持つか否かに関係なく、人間、自分を理解するうえで聖書は必読書だと思っている。退職に当たってある人からこんな聖書の一節を贈られた。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
有名な「コヘレトの言葉」の一節だ。この「コヘレトの言葉」、初めて読んだときは大きな衝撃を受けた。「ヨブ記」もそうだったが、それまで抱いていた聖書イメージ、キリスト教イメージを大きく揺さぶられた。冒頭からしてすごい。
「コヘレトは言う。なんというむなしさ、なんというむなしさ、すべてはむなしい。」
そして、末尾もこうだ。
「なんとむなしいことか、とコヘレトは言う。すべてはむなしい、と」
信仰の書である聖書が、こんな虚無的言動を載せているとは、驚きだった。
「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに
努め、神のすべてのわざを観察した。まことに、太陽のもとに起こるすべてのことを悟ること
は、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを
知ったと言おうとも、彼は悟ってはいない。」
「むなしい」と訳された「ヘベル」という言葉は、旧約聖書全体で81回使われているが、そのうち38回が「コヘレトの言葉」で用いられているそうだ。しかし、コヘレトが神の存在を否定しているわけではない。冒頭の言葉とともに有名な次の一節がそれを端的に語っている。
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時 保つ時、放つ時
裂く時、縫う時 黙する時、語る時
愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極
めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それで
もなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
神のわざを見極められないのだとしたら、人間はどう生きればよいのか?
「このむなしい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。
善人がその善ゆえにほろびることもあり、悪人がその悪ゆえに長らえることもある。
善人過ぎるな、賢すぎるな どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。」
神のわざを知りえない以上、賢すぎず、愚かすぎず、謙虚に生きるしかないということか。では、神の存在そのものを信じない人間、信仰を持たない人間はどう生きればよいのだろう。
(ティントレット「動物の創造」)
(ウィリアム・ブレイク 「日の老いたる者」 )世界を創造する神
(マザッチョ 「聖三位一体」 )
(ルーカス・クラナッハ 「聖三位一体」)
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