「さくらを愛でる」⑤
昨日は3月で2度目の満月「ブルームーン」。桜の季節と満月、となると頭に浮かぶのは西行の歌。
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」
「きさらぎ」(如月=2月)の「もちづき」(望月=十五夜)と言えば釈迦入滅の日。死期が近いことをさとった釈迦は、頭を北に向け(北枕)右脇を下にして西向きに横たわる。いつもそばにいたアーナンダが泣き悲しむのを見て釈迦はこう語る。
「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように
説いたではないか、――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るという
ことを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破壊しないよう
に、ということが、どうしてありえようか。」(大パリニッバーナ経)
そして、しばらく法を説かれたあと最後にこう言われた。
「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。おこたる ことなく修行を完成しなさい』と。」(同上)
満開の桜が散る姿に日本人は人生の無常を重ね合わせてきた。
「散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき」
(桜の木の下で酒宴の時、桜の散るのを嘆いた在原業平の有名な歌「世の中に絶えて桜のなか
りせば 春の心はのどけからまし」に対して詠まれた返歌。作者不明)
「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛)
永遠なもの、不変なもの、絶対的なものなど神以外には存在しない(信仰を持たない者には、それすら存在しない)。だからこそ、今のこの時、今共に生きる人、今目にする物、そして何より今生きていることそのものへの愛おしさが生まれるのだろう。
(広重 「東都名所 吉原仲之町夜桜」)
国貞「風俗花立見 東都吉原の桜 八代目団十郎」)
(「涅槃図」岐阜・少林寺)
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